「無神論者の夫が何かと反発するので嫌いになりました。
私は、ある宗教に入っていますが、それは結婚前からのことで、
夫も了解して居るはずですし、家庭では宗教の話は一切しません。
無神論者の夫には気を使い、何も迷惑はかけていないのに、
「宗教を信じるヤツらは馬鹿だ、弱い人間だ」
「神なんて、いるはずないものを信じているのはキチガイだ」
というクレームのような発言をします。
たまのお小言なら我慢しますが、毎日のように、顔を合せると言ってきます。
まるで、苛められているようで、間違いなく言葉の暴力です。しかし、
私から見ると、何事も短絡的でネガティブな夫の方が弱い人間に感じます。
神仏は、私にとっては親友です。心の中では夫よりも大切です。
このままの夫との暮らしはキツイです。心の平安のために離婚を考えています」
柴犬さくら ふわふわモコモコ
≪お釈迦様のスピリチュアルメッセージ≫
普段、神さまに何を祈りますか?
「救ってください」 「お守りください」 「お導き下さい」
主には、こんなものですね。
こういう祈り言葉が慣例ですが、
それは、人間が神に対して弱い立場であるからですね。
弱くて何も出来ない存在であることを認めているから、
神に助けてもらうという訳です。
その弱い者同士が集まって作り上げているものが、人間の社会です。
弱い者同士の集まりですから、生きるためには助け合って行くべきである、
という理屈はわかりますね。
でも、貴方の夫のように自己愛が強い人間は、その弱さゆえに、尊大になります。
貴方も、夫の内面は感じていますよね、それなら許してあげましょう。
貴方は、宗教を学んでいて、神理に触れる立場にあるのですから、
神理に触れるということは、神理を知らない相手に対して、霊的義務があります。
貴方は、夫に対して、魂のレベルでは少しだけ大人なのです。
少し大人の魂になってきたので、穏やかな暮らしを望むようになりました。
以前は、夫に何か言われると言い返していたのでしょう?
今は、そのような無意味な口論に嫌気がさしてきて、うんざりしている。
その夫との、どうでも良い日常から脱出するには、先ず、貴方が、
信仰の初心に戻り、「自分は弱い存在なのだ」と自覚しましょう。
貴方は、夫の無心な態度に執着して、自分の真の姿を忘れています。
夫は弱い人間、そして貴方も弱い人間です。互いに協力し合って生きるのです。
自我のぶつかり合いにおいては、反発していますが、
現世の暮らしでは家族として協力しているでしょう。
それをそのまま受け止めましょう。
自分は弱い人間、夫はもっと弱い人間、互いに助け合って生きる。
それが人間社会の在り方です。
貴方は、魂の平安が欲しいと言いますが、
人間の魂の中身は、無数の魂が出入りしており、
それを、「私」という言葉で一括りにしています。
類魂とも言いますが、人間の精神や魂は、
一つでは無いのです。無数の類魂が一つに纏まり「私」になっています。
魂を平穏にするには、「私」の理だけを追求したのでは的が外れていて、
「私」を作り出している、類魂が平穏にならなければ、「私」の平穏はありません。
つまり、貴方が自分の魂を穏やかにしたいなら、
先ず家族と落ち着いた人間関係になる事、特に夫との関係です。
夫に寄り添い、夫が内面に抱えている不安を理解してあげましょう。
貴方は、夫の暴言や態度が怖いのでしょう、でも貴方の信じている神が導くはずです。
夫と別れることは簡単です。もうすでに心は離れている、と思っていますが、
それは貴方の思い込みです。ここでは、貴方の信仰が試されているのです。
夫を許して、夫に寄り添ってあげましょう。
そうすればだんだん態度が穏やかになります。
貴方の夫は、暴言を吐くことで、悪い想念の種をまきます。つまり業です。
その種を育ててしまう(縁)ことの無い様にしましょう。
つまり、言い返さないことです。
業の種がやってきたら、受け取らないように。その種はいずれ消えます。
これは、霊界に来てから分かったことですが、業の種は、悪い力の印象ですが、
それ自体に善悪は無く、力の塊です。善悪と言う方向を付けるのは人間の心です。
業の種は、切り捨てるよりも、大きな慈愛で包み込み相手に返すと、
より深い魂の交流が出来ます。貴方が問題にしている、夫の言葉、
「宗教を信じる人間は馬鹿だ、弱い人間だ」と、また言ってきたときは、
それは、貴方へのものではなく、不甲斐ない自分への言葉なのです。
夫の暴言は怖いものですが、そこは神様を信じて、夫に労りの気持ちを向けましょう。
悪口を言われても、冷静になり、愛の気持ちを持つ、というのは、
思考習慣ですから、二週間位練習するとできるようになります。
仏教では、業は切るもの、消滅させるもの、と教えていますが、
霊界に来てから、緒界を巡り神理を見ました。
業はなくすものではなく、善きものに作り替えるべきもので、
業こそ生命の源であることが判りました。
キリスト教の聖書では、人間は粘土から生まれますが、
正にその通りで、業は魂の粘土なのです。
人間は、業を粘土のようにこねて、善いものに作り替えるという役割を担います。
先ず、夫、そして家族に実践してください。
難しい話しになりましたね。
要は、貴方の信じている神に全託し、夫の態度を責めない様に、
という御話でした。
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