この時期の通例のクリスマス批判です。クリスマスはイエスキリストの誕生日ではない、古代ローマの宗教のお祭りの日である、いや悪魔崇拝の祖ニムロデの誕生日である、などと色々な説をネットで見ることが出来ます。キリスト教の側ではどういう見解なのでしょうか。①クリスマスはイエスキリストの誕生日ではなく降誕を祝う日である②12月25日という日付はミトラ教などのお祭りに因んだものであることは事実である③365日のいずれかは実際のイエスの誕生日であるのだから12月25日がそうである可能性はゼロではない。聖書の記述からくる、羊飼いが野宿しているのでこの時期ではないと言う説は間違いで、実際は野宿する者もいる。・・・というものです。苦しい説明だなあ、とは感じるものの否定は出来ません。問題なのは12月25日がイエスキリストの誕生日だと思っている人が殆どではないか、いやクリスチャンだって大方がそう思っているのではないか、と言う事なのです。教会ではクリスマスの背景など語られることは先ずありません。牧師が下手にそんなことをしゃべって疑念を抱かれる、などというヤブヘビはしないのです。

 では真相は何でしょう。・・・そんなことは分かりません。が、以外と物事は単純なのです。難しく考えるから解らなくなるのです。聖書なんて所詮作り話サ、と言う感覚で読むと、実は分かってくるのです。

マタイ伝の最初を読むと、「ユダヤ人の王が生まれた」と啓示を受けて東方から三人の賢者が途方もなく高価な贈り物を持ってやってきた、ヘロデがベツレヘムの2歳以下の子どもを皆殺しにした、とあります。こんな大事件がありながら誕生日が分からない?年も分からない?そんなことがあろうはずもないですぜ。旧約聖書に預言された救世主になる、ともあろうお方が生まれたのだから、3人の賢者どころかあちこちからいろんな人がやってきて救世主の降誕を取材し記録し、その後の成長もつぶさに記録される、べきなのです。ところがマタイとルカの2文書だけに誕生の経緯が簡単に書かれているだけ、しかもいつのことだかさっぱり分からん、ときたもんだ。

 マルコ伝はイエスが30を過ぎ公生涯が始まるところから記述されています。これが本当の所なのです。つまりそれまではイエスは無名であったのです。ヨハネの所に現れてから、ガチガチのユダヤ教の配下で苦しみを受ける民衆を救う活動を始めたナザレのイエスの物語が始まるのであります。あまりに偉大な存在になってしまったので死後に弟子たちにより神の子に祭り上げられて、旧約聖書の預言の成就としての存在にされてしまったのであります。預言成就を正当化するために、処女降誕、ベツレヘムでの降誕、ヘロデの幼児虐殺、東方3賢人訪来、エジプト避難・・・全部作り話なのです。聖書の記述とこの作り話+30歳まで無名説、どちらが筋が通りますか?まあ、どう信じても全く自由なのであります。

 問題は、思考能力を放棄してキリスト教の言う「聖書は一字一句間違いの無い神の言葉である」という洗脳をそのまま受けてしまっている事なのです。クリスチャンでなくても聖書の記述を真に受けて、聖霊による妊娠などあるわけがないから、マリアはヨセフ以外の男と密通して妊娠したのだ、などと真顔で論じる人がいるのにはあきれます。ルカ伝には12歳になったイエスのことが書かれていますが、それ以外は公生涯になるまでのイエスの人生の記述がありません。実はイエスはインドに行って仏教を学んだ、チベットに行って修行した、いや日本にまで来て伝説を残した、などと言う珍説がネット上で聞かれます。ま、どのように解釈しても全く自由なのですから何も言いませんが、心の中ではあほらし~と感じてしまうのです。

「イエスは公生涯以前は全く無名の存在であった」これが私の中では真実なのであります。

 私の愛読書はニーチェの「キリスト教は邪教である」です。最初に読んだときはあまりの罵詈雑言に閉口しましたが、今では全く共感しています。「クリスマスはデタラメ、キリスト教はトンデモ邪教」と声高らかに宣言するのです。25日が過ぎるまでは我慢が続きます。どこへ行ってもクリスマスソングばかり。頭がヘンになる。