創世記のアダムとエバの話はあまりに有名です。敬虔な方々は史実と捉え、そうでない方は神話と捉え、その中間と捉える方々もいらっしゃることでしょう。それにしてもなぜ神は善悪の知識の木なぞ植えたのでしょう。美味しい果物がなる木のみを植えておけば、現在のような罪に満ち満ちた世界になどならなかったのに、と言う疑問も出てきて当然です。「神の天地創造は極めて素晴らしかった。しかし神はたった一つだけ過ちを犯した。それは人間をつくったことである。」などと揶揄される事もあります。

 浄水器の業者の宣伝方法は・・・①水道水は塩素が高濃度に加えられていて健康に悪影響をもたらします②塩素さえ取り除けば健康を維持できますがそれをしないと色々な疾患によって平均寿命が○○年短くなります③この浄水器を使うと99%の塩素を除去できるばかりではなく○種以上の有害物質を取り除くことが出来る上、電気分解により身体に良い活性水素が生成されるのです④今日ご契約してくださった皆さんに限り20%引きとさせて頂きます。・・・危険を煽って唯一の解決策を示し契約に持ち込むのです。(全ての浄水器がどうのこうのと言うつもりはありません、念のため)。宗教も結局ビジネスですから同じように人々を引き入れます。・・・①人間は罪に満ちています②罪を持ったままでは死後天国に行けません。地獄行きです。③この信仰は唯一その罪から救ってくれるものであり信じない人は地獄行きです④さあ、あなたも直ぐに信じましょうネ・・・

  さて、人々にどのように罪の意識を植え込むか、と言う事が創世記に書いてあることです。なぜ神は善悪を知る木をわざわざ植えて、誘惑に負けて食べてしまうだろうアダムに「食うな」と言ったのだろう?などと考えるのは無駄なことです。木の実でなくても何でもいいのです、神がある行為を禁じて人間がそれを破ってその行為をしてしまう、と言う事ならば。つまり神の命令を破った、と言う事のみが問題なのです。むしろ、なんでそんなことを命じたのだ、ワケわかんねえ、と言う事の方が効果的なのです。どんな命令であっても神からの命令は行わなくてはならない、と言う事が重要なのです。なんで男の子が生まれたら八日後におちんちんの先っちょの皮をちょん切らなきゃならねえんですかい?というのは愚問なのです。ワケが解ろうが解るまいがカミサマの命令は厳守しなくてはならないのです。それが一神教というものなのだ、貴様ら、分かったか・・・、と言う事なのです。

 お釈迦様に「人間はもともと罪を持って生まれてきたのでしょうか?」と聞いたら何とお答えになるでしょうか。多分、因果応報である、とお答えになるのでしょうか。原因があって結果が生じる、ということ。自ら罪の種まきをした人間がその実を刈り取る、と言う解釈でいいのでしょうか。古代ユダヤ人が勝手に作った罪の概念を信じようとはつゆほどにも思いません。お釈迦様の教えの方が断然しっくりきます。

 創世記に書いてある罪の概念こそがこの世の諸悪の根源になっているのです。神の命令には絶対逆らってはならないのです。逆に、神の命令があれば何でも出来るのです。中南米を侵略して先住民を片っ端から殺しまくり資源を強奪する、アジアを侵略し民を奴隷化して香辛料を生産して金儲けをする、アフリカの民を奴隷にして売りさばく、全て“神の命令”があれば出来るのです。(神の命令=神の代理人の命令=ローマ教皇の命令)そんなのは論理が飛躍しすぎている?そんなことはありません。素晴らしい(?)ひな形が旧約聖書にあります。ヨシュア記です。モーセの後継者のヨシュアに率いられたイスラエル人はカナンの民(パレスチナに住んでいた民)を女子どもに至るまで殺し尽くし、その地に入植するのです。どうしてそんなことが出来るのでしょう?正に神のご命令なのです。それから3千年後の現在も同じような光景が繰り広げられています。