・・・当たり前です。イエスキリストの十字架の死と復活による罪の購いを信じなくては、絶対に!救われないのです。信じないものは地獄に落ちるのです。・・・

 と、そう宣教しないと信者は集まらないのです。宗教を作るのは人間です。人間は例外なく煩悩具足の凡夫、人間から煩悩を取り去ったら何も残らない、と言われますう。人間は例外なく、と言いましたが、お釈迦様とナザレのイエスを除いて、としておきます。煩悩具足の凡夫が宗教を作ると、必ず既得権益化するのです。一番最初は純粋な精神で布教し始めたとしても、色々な経費がかかります。印刷費、会場費、飲食費、雑費、関係者の生活費等々、お金がかかるのです。お金を集めると予想以上に入ってきたりします。煩悩具足の凡夫は、もうチョット、もう少し、もっと、もっと沢山、もっと大金を、となってくるのです。旧約聖書のどこからか引っ張ってきた10分の1献金、つまり収入の1割を献金せよ、という決まりを作って信者からお金をせしめるのです。最も多数派の教会は強制はしていないでしょうけれど、つまり自由。しかし敬虔な人はちゃんと1割以上を納めているのでしょう。

 聖書に関する疑問の答えは全て聖書のなかにある、と教会では教えられます。全くその通りと捉えて聖書を読むと逆説的に分かってくるのです。例えば「携挙」は本当にあるのか?と言う事に関して。パウロは「私たち生き残っているものが・・・」とあるので、携挙はあるとしたらパウロが生きている内に終わっているのです。それを現代が終末の時であり艱難期に入る前に携挙があるだろう、だから早く信仰しなさい、(そして教会へ来なさい、たくさん献金しなさい・・・)。と言う事なのです。つまり聖書によるとこれからの携挙はない、と言う事です。他の例は、福音書に書いてあることは全て事実か?と言う事に関して。4つの福音書は似通った部分とそうでない部分に分かれます。似通った部分には異なるところが少なからずあります。4つの福音書は全て事実であるとすると矛盾の山になります。なぜ一番最初に書かれたマルコ書が二番目に置かれているのでしょうか。マルコ書を参考に書かれたマタイ書の方がイエスの神格化がなされているからです。どちらがより実際のイエスに近いかというとそれはマルコ書であるが、マルコ書では宗教拡大上弱いので、いろいろ付け足して書いたのがマタイ書なのです。マルコ書はマタイ書の要約である、と言われたのもそのためです。つまり4つの福音書を読むとそれぞれの著作者の思想や都合に合わせて粉飾されたものである、つまり聖書をちゃんと読むと福音書に書かれていることは全て事実ではないと言う事なのです。もう一つ、イエスは本当にダビデの系統なのでしょうか?マタイ書の冒頭にずらずらと人名が出てきます。全てダビデの系統だそうです。アブラハムからイエスの父ヨセフまで出てきます。ところがマリアは処女でイエスを生んだのでイエスは当然のことながらダビデの系図ではないのです。遺伝子がつながっていませんから。キリスト神学では色々説明をつけるでしょう。遺伝ではなく家系の事である、マリアもダビデの系統である・・・・どんな矛盾点でも正当化するのがキリスト神学ですから。つまりマタイ書を読むと、メシアの資格がないナザレのイエスをわざと神格化した、と読み取れるのです。

 「イエスの死と復活を信じないものは救われない」とイエス自信が言ったのでしょうか。そんなことは福音書に書いてありません。(そう解釈される箇所もあるようですが)イエスがどんな活動をしたのか、どんな言葉を残したのか全く興味が無かったパウロが言ったことなのです。新約聖書の後半はパウロやその後継者によって書かれたものが殆どです。牧師やキリスト教関係者は「・・・・と聖書は語ります」という表現を使いますが、この場合はパウロ書簡以降の文書です。福音書を取り上げる時は「・・・・とイエス様は語られます」というのに、パウロ書簡を取り上げる時は「・・・とパウロは語ります」とは言わないのです。パウロの言葉を神格化するための方法、なのです。偏屈で女性を差別し自己流の理屈ばかりこねるパウロが語る、よりも聖書は語る、と言った方が通りはいいですから。

 宗教者は無知な人を狙ってきます。路傍伝道して、聖書を説明して、イエスを信じましょうと薦めて、それではイエスを信じます、となったら、おめでとう・あなたは救われました、となるのです。そんな単純なものなのでしょうか。いい加減にしなさい、と言いたくなりますが、言っても仕方ないですね。信仰を持つには(信仰に限りませんが)先ず知識です。知識が裏付けとなって、始めて判断力がつくのです。知識が無いのに判断してはなりません。その意味では敬虔な信者ほど知識が無いのかも知れません。