今までのブログに書いてきた通り、聖書は矛盾の塊です。聖書を本格的に学んで日が浅い私が分かるくらいだから、毎日聖書を研究する牧師はなおさら感じているのではないでしょうか。しかしながら、信者の前では優等生を演じ、間違えても、真理とはちょいとちゃいますねん、などという素振りは決して見せてはいけません。あくまでイエスキリストは真理です、ということを、情熱的に明るく愛をもって(いるように)語らなくてはならないのです。

 教会へ何年も通っているうちに他の教会へ顔を出したり教会を替えたりすることがありましたが、思い起こすと妙なのです。もちろん毎日曜には礼拝があります。週の中日には祈祷会があります。日曜学校もやっています。しかし聖書を学ぶ機会が皆無なのです。教会によってはやっているところもあるようですが圧倒的少数でしょう。少なくとも私はお目にかかったことが皆無です。なぜキリスト教会は聖書勉強会をしないのでしょうか。牧師はそんなに忙しい?忙しいかも知れませんが、聖書勉強会は必要でしょう。それをやらないのはなぜか?それは信者には勉強してもらいたくないのです。クリスマスの嘘、イースターの嘘、4つの福音書の数多ある食い違い、福音書よりパウロ書簡のほうが先に書かれている、等、勉強すればするほど矛盾が露わになるので、信者には悟られないほうがいいのです。

 聖書勉強会はありませんが毎週書かさずにやっているのが祈祷会です。祈り、というものは宗教に欠かせない儀式なのは確かです。「何でも祈っていいですよ」。人は思っていることを声に出すことでストレスを緩和したり脳内幸福物質を分泌させたり、多幸感を得たりするのです。何でも神様に祈ることが出来る、のは教会の信者を増やすのに欠かせないツールなのです。それに対して聖書勉強会は逆効果になる場合もあるのかも知れません。しかしながら「異言の祈り」を人前でやらかす人がいるのは疑問を感じざるを得ません。「異言の祈り」とは聖霊が下ってその人の口から祈りの言葉を出させるものですが他人には何を言っているのか分かりません。恍惚状態に陥って、このヒト大丈夫?状態になるのです。聞いていると「ベロベロ」と聞こえるので私は「ベロベロ祈り」と呼んでいますが、知らない人が聞いたらトンデモカルトのキチ○イ儀式と思うに違いありません。イエスが人前で多くを祈ってはならない、と言ったにも関わらず平気でベロベロやるのはなぜか?それは祈りで高揚感を得てドーパミンを出すため、と考えられます。宗教儀式でドーパミンを出させれば洗脳はたやすいのです。

 私が牧師になったら、先ずキリスト教の負の歴史を教えます。宗教戦争、異端審問、十字軍、侵略への加担などなど。4つの福音書の違いや矛盾点を教えます。福音書よりパウロ書簡の成立が早いことを教えます。祈りはイエスが教えてくれた主の祈りに限定します。聖書以外の史的イエスの文献が極めて少ないことを教えます。十字架刑がどのような残酷な刑か具体的に教えます。・・・だめだ、だれも来なくなるワ。日曜日、教会の講壇にに立ったら誰一人も来ていない・・・教会も閉鎖、と言うより初めから教会など持つことが出来ないですな。

「牧師の妻にうつ病の人が多い」と聞いたことがあります。本当にそうかは分かりませんが容易に想像出来る事です。経済的な側面はありましょうが、なんと言っても、宗教上・聖書上の数多の矛盾をかかえながら信者の前では明るく“真理を語ら”ねばならず、しかし、信者の激減で教会の存続を心配せねばならず、ごく希に私のような偏屈クリスチャンがいて毎回説教に関してケチをつけてこようものなら苦悩が倍加します。牧師も牧師になる前は夢や希望ををもって明るく神学校へ行っていたのでしょうが、実際牧師になって教会に赴任すれば煩悩にまみれた人間の集まりに神経をすり減らす羽目に陥ることは容易に想像出来ます。教義上の虚構を語り続けなくてはならない、嘘をつき続けなくてはならない。牧師とは最も過酷な職業の一つではないかと思うのです。