奈良旅のお供だったのが司馬遼太郎「街道をゆく」の記念すべき第1巻。
というより、そもそも大神神社に行きたい!となったきっかけがこの本でした。
それから11年、大神をおおみわと読む理由も忘れ去ってしまっていたので、復習と現地予習を兼ね往路の新幹線で読み始めました。
「竹内街道」編を奈良駅乗り換え待ち中に読了。
続いて「長州路」編を読み始めたら乗り過ごしそうになりましたが
山口県(長州路)から奈良へ、、、ということで感慨ひとしお。
また、この時司馬氏は石上神宮から、山の辺道を行きたいけどしんどいので国道を車で大神神社へと行くのですが、これがちょうど私が今回辿った道でした(工程は逆ですが)。
忘備的にいろいろ引用しながら行きます。
(2022.7.6 大神神社二の鳥居前で記念撮影してたの忘れてました画像差し替え)
そもそもこの一編は「竹内街道」となっていますが、石上~三輪とその途中の崇神・景行陵・箸墓と山の辺道沿いが2/3を占めます。残り1/3が大阪県境の竹内街道。
司馬氏と同行するのが日本語学のイギリス人学者(ちょっと偏屈)というのがまた面白いです。
さて、序盤で奈良の現風景について、
いまの現実の、この日本でもっとも汚らしい県の一つ
これが書かれたのが1971年。高度経済成長の最後の方で日本各地で大型公共工事があった時代だったからでしょうか。
あるいは、戦前の奈良の風景を知る司馬氏にとってはそう見えてしまうのか。
それから40年。
その時代の反省がなされたのか分かりませんが、建物の高さや装飾は規制された抑制的な街並み、密接している現代農業の姿に私は好感が持てました。
大神神社について、
伊勢神宮の形式など、はるかにあたらしい。
「日本最古の神社」
とよくいわれるが、その程度の言い方でもなおこの三輪信仰の霊威の古格さを言いあらわしがたいだろう。
「出雲」について
イズモとは(中略)種族名でもあったにちがいない。(中略)その大和盆地の政教上の中心が、三輪山である。出雲族の首都といっていい。
大神をオオミワとよませる経緯について(の推測)、
(引用要約)
・平安時代の神仏混交で仏教語である明神がついて三輪明神が定着。
・明治の神仏分離で明神という称号を廃さねばならなくなった。
・神主さんが新しい社名を考える時
「三輪の神は、日本の土着神の元締めでありながら、単に大和地方の一地方神のようにおもわれてきた」
という千数百年の鬱屈から言語的自己肥大の衝動が湧きあがった。
この結果につて司馬氏は、
オオミワと読ませる愚をやってしまった
と手厳しいのですが、
私は大和と書いてヤマトと読むのと同じように、おおらかで良いと思うし、ちょっと読めないぐらいの方がここには相応しいと思ってます。
因みに、実際大神神社でもらったパンフレット2つには「三輪明神」が主に使われていました。
帰りの新幹線でもう1度読んでしまいました。現地に行ってからだとまた面白い。さすがです
と、竹内街道編(の山の辺道)だけで長くなってしまったので、続きは別記事へ。