カルロ・ベルゴンツィはテノール歌手で、私が生まれる前から既に歌っていた様な方です。
もう20年以上前のことです。彼が日本に来たことがあるのです。
既に何度も引退して(!)その度にファンから聴きたいとせがまれてはコンサートをしていて。
私が行ったそのコンサートも、久々にお弟子さんを連れての来演でした。
1ステージ目はお弟子さん方の歌。
声に艶があるしボリュームもあるし、きちっとしていて素晴らしい歌唱でした。
さすがです。
2ステージ目、師匠であるカルロさんが出てこられて歌われました。
残念ながら、声は出にくいし、そのためにピッチも不安定でした。
上手さは伝わってくるのですが、ドキドキしながら聴きました。
そして、コンサートの最後の方に得意中の得意の歌を歌われました。
私はそれが何の歌だったかも忘れています。感動しすぎたからです。
突然声が出る様になったわけでもなく、ピッチも悪い。
けれども素晴らしい歌唱で、感動で胸がはち切れそうになってきました。
最後の最後、音を伸ばして盛り上げるところで、彼の声は明らかに上がらず、全く違う音のままクライマックスを迎えてしまいました。
けれど、会場は総立ちです。
みんな「うお〜〜」という地響きに似た様な声をあげて立ち上がって拍手が止みません。
隣で、娘が泣いています。
「私ですら音が狂っていると明らかにわかるのに、なんでこんなに素晴らしいん?」とボロボロに泣いています。
音楽をするにはたくさんのテクニックが必要です。
歌うためには喉の訓練はいろんな形で行われなければなりません。
声が出にくいとかピッチが悪いだなんて、まず最初からあり得ないことです。
けれど、会場中が総立ちになるくらい素晴らしい歌があり得たのです。
音楽の不思議。
私はそう呼んでいます。
私はそこに行きたい。
音楽のいろんな要素、歌のいろんな要素、それらをきちんと学んで体に落とし込まなければならないのは当たり前のことです。
けれど、それだけでは語れない音楽の不思議の世界が確かにある。
それは広く大きく豊かでしょう。豊かすぎて、言葉で語れないくらいなのだろうと感じています。
そして、もう一つ大切なこと。
それは、生の音楽でしか、私たちは味わえないのだろうと思っています。
録音するとなると、どうしてもわかりやすい部分が「きちっとできているかどうか」に着目してしまいますものね。
人間が音楽にいい悪いとか、見えるところで価値を見出そうとする時、それらは消え失せてしまう。
そして、音楽の、歌の、私たちが学んでいるいろんな要素は人間の世界での事に過ぎないなと思います。
けれど、音楽には人間が言葉で語れないほどの豊かなものが明らかに存在しています。
私はそこに行きたい。
歌いながら翼を得たと感じる時(滅多にない事なのですが)、少なくとも私はその方向に向かって飛んでいる気がするのです。
そんなに言いつつも、まだまだその感触があると思っているくらいのことにすぎません。
そっちを向くことができている気がすると言った程度のことです。
でも、それですら、私には画期的なことです。
カルロ・ベルゴンツィさんから私が学んだその道を私は歩きたいと思っていて、それを一所懸命目指している。
私にとっては宝物の体験です。
生の音楽をたくさん聞いてきたことが 私の宝物になっています。