一人の若者(ryuchell)が亡くなった事実を どう受け止めたらいいか、ずっと考えていました。

理由がわからないのだから、外から色々いうことではないと思う。

 

ただ、ここに、SNSに流す様な言葉ではなく、しっかり考え、丁寧に綴られた文章に出会ったので、紹介しておきたいと思います。

 

 
ryuchellは本当は「みんなの希望」だったのだと思います。LGBTQの人たちだけではなく。
 
ロンドンでプライドのパレード(LGBTQに対する差別や偏見に反対し、セクシュアリティやジェンダーの多様性を祝うパレードを中心としたイベントで、毎年7月にロンドン中心部で開催される)を見た時、ああ、これはすべての人が自分らしく生きることを願うパレードなのだと深く感動したのです。
そこにはドラアグクイーンの人たちはもちろん、LGBTQだろう人たちだけじゃなく、障害を持っている人たち、おそらくは国に戻ると宗教的な理由で許されないのだろうと思うたった二人で参加している人たち(全身を布で覆っていました)。
そして、大きな会社も派手な車を出し、消防車やお巡りさんたちまで参加した楽しいお祭りになっていました。
 
アマゾン
 
障害のある人たちも
 
おまわりさんたちがパトカーまで出していました
 
いろんな国の国旗もありました。
そこにあったのはすべての人たちの存在を大切に思い合いたいという願いでした。
 
このお祭りの「希望」を生きようとした一人の若者。
彼は自分を生きるとともに 私たちみんなの希望の道を生きようとしていたのだと思います。
でも、ミッツ・マングローブさんが書いている様に、「希望や自由をより見いだせる時代になった分、失望や絶望は背中合わせでついてくる」だったのでしょう。悲しいけれど。
 
元より人間の存在は多様なものだと思います。
SNSに中傷を書き込む時間があったら、このパレードに参加してみて欲しいです。
自分を認め人を受け入れることが まさしく自分の「誇り」となるのを感じます。
きっと、自分も解放されていくのを感じられると思うのですが、どうなのでしょうね。
 
死の真相はわかりません。
けれど、SNSでの誹謗中傷が深く彼を傷つけていたのは確かです。
 
垂れ流しの様なSNSでは、言葉は薄っぺらくなっていっています。
中身が薄い。
ryuchellに対する追悼の言葉も このミッツさんの文章で、ようやくしっかり考えられた言葉に出会ったと思いました。
追悼の言葉ですら、垂れ流しのSNSという簡易の手段に頼ってしまう。
そして、言葉は軽く薄っぺらになっていく。
 
言葉が軽く薄っぺらになるということは、人との関係性がそうなるということ。
言葉はコミニュケーションの手段なのですから。
その繰り返しの中で、自分の存在はどんどん希薄になっていく。
誹謗中傷している人たち、それに気付いているのでしょうか?
結局は 自分で自分の存在を希薄にしているのに。
 
自然災害の恐ろしさを私たちはたくさん知っています。
容赦ない。
だから、私たちは一所懸命 つながって、支え合って、みんなで生きないと・・・と思うのです。
 
それを生きることが、私の答えになる様にしたいと思います。