Hello
ぴゅうです。
今日はピアノ
なので香辛料更新量は控えめ。
今日は、二子玉川周辺からスタート。
僕は、多摩堤通りで右折してしまい、
そのまま二子橋へ。ここは旧246ですが、いまだ246に登録されています。
向こうに見えるのが新246、新二子橋。
1925年に作られたもので、1927年~1966年までは玉電との併用軌道となっていました。
昔、大山街道を歩いていた人々は、二子の渡しを通っていました。
技術的には橋も架けられたのですが、幕府は多摩川を江戸の要塞としていたため、橋はかけられず、渡し船でした。
人だけではなく、馬や荷車用の船もあったり、大きな渡し場となっていました。
かつて暴れ川であった多摩川は、人々が川の氾濫により何日も足止めされることも多々ありました。そのため、両岸には町が自然と発展しました。特に、川崎側は二子・溝口ともに発展し、宿場ともなりました。
また、流路変更も多くあった多摩川なので、二子の渡しの位置もよく変わりました。
しかし、明治時代にはこの二子橋の下流にありました。
江戸時代には、上町線につながっていたのだ、と考えます。
全長440mの二子橋を渡りきると、東京都世田谷区から神奈川県川崎市高津区となります。
二子橋交差点からは二子・溝口宿となります。
江戸日本橋から五里、相模矢倉沢へ十二里。上中下三宿に分かれ、寛文九年(一六六九)十二月溝口村は宿駅に指定され人馬継立を行った。後に二子村が分村独立すると二子村と月の半分ずつ宿役を勤めた。
「二子(ふたご)」の由来ですが、町内の元居村(二子5・6丁目)に二つの古墳があり、「二子塚」と呼ばれたのに因んでいます。
しかし、今では古墳は残っておらず、写真、記念碑、橋の名前、マンション名に名を残すのみとなっています。
ここら辺の大山街道沿いには「大山街道」との表記もあります。
元々は神明社、と呼ばれていたそうで、創建は1641年といわれています。
拡大可能。
大山街道に面している鳥居の脇には、このようなものが立っています。
「かの子碑」とは、太陽の塔で有名な岡本太郎の母親で、文学碑、というかモニュメントが境内にあるそうですが、僕は行けず。
他にも境内には
境内社があったり、
庚申塔があったりします。
何となくこの庚申塔気に入ってたりします。
197m進み、左手のマンションの脇にある公園の前にあるのが
拡大可能。
先ほどと同じ種類の案内板。
ここは大貫家があった場所で、岡本かの子の生家だったそうです。
かつては元居村にあったそうですが、住民の移動とともに現在地にうつされました。
甲斐武田家の家臣、小山田宗光が庵を作ったのがはじめだそう。
寺となったのは1601年のことです。
また、明治時代には境内に「二子学舎」がおかれ、近代初等教育の基となったそうです。
さっきの写真にあった「大山街道」と書かれた電灯のほかに、このような赤いものも近くに貼ってあったりします。これはここだけのものではなく、遥か離れた大山のお膝元、伊勢原市にも貼ってあります。
面影を探しつつ406m進むと、
趣を残すタナカヤ呉服店に出ます。
「重い瓦屋根と土の壁、母屋との境は厚い土戸。2階には頑丈な格子窓。防火、防犯など蔵の特徴を生かした重厚な店構え。田中呉服店は、明治に建築された代表的な蔵造りの店である。」
それでは、今日はここまでとします。
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また明日。



