片道3時間以上かけて、たどり着いた人生初「オネーギン」。
以前、テレビ放送は観たことがありますが、その時は、そこまで刺さらなかったのですよね…。作品自体も、結構長く感じてしまって…。
今回、チケット代もお高かったこと、東京公演のみであったことから迷ったのですが、「これを逃したら、もう二度と観ることがないかもしれない」と思い、遠征を決意!
素敵なご縁とご厚意で、自力の一般発売では取れなかったであろう良席に恵まれました。
本当にありがたいかぎりです。
「今回、この感動を味わうために、私はオネーギンを今まで観てこなかった!」というくらいの感動でした。
もう、感無量です。
チケットは、もちろんソールドアウト。
当日券もなかったようです。
幕開け、あの「E.O」のイニシャルが描かれた幕が見えただけで、一気に気分が上がります。
そして、どの場面も、衣装や美術が素晴らしくて!
フリーデマン・フォーゲルのオネーギン、圧巻でした。
「スター」や「レジェンド」とはかくあるべき、という存在感。
ただ、イケメンでカッコいいアイドル、ではないのです。
バレエダンサーがそれでは、あまりにも勿体無い。
まさに芸術家(アーティスト)。
1幕で、タチヤーナと視線が合った瞬間、大きくドラマが動き出したのが分かり、鳥肌が立ちました。
彼女が読んでいる本のタイトルを見た時、客席に見えるように浮かべる薄ら笑いも、ゾクゾクするものが。
ただ、私はフォーゲルの演じるオネーギンが、決して「嫌な奴」とは思えなかったのです。
どこか共感を呼ぶ、特に現代人にグサグサ刺さる人物像。
情報化社会である現代、私たちは、周囲からの視線を常に意識し、「期待される人物像」であり続けようとしてしまう節があると思います。
何かを選択する時、「自分がどう思うか」よりも、「これを選んだら、周りからはどう思われるか」が判断基準に入ってきてしまう。
そうこうしているうちに、「自分が何がしたいのか、どうありたいのか」が、自分でも分からなくなってしまう。
フォーゲルのオネーギンは、そうした社会で生きることに疲れ果てたが故に、「自分の気持ちを封じ込める」ことを選んだ孤高の青年に見えました。
タチヤーナや周囲に挨拶する時だけは、常にスマートに振る舞いますが、背中を向けた途端、どこか虚ろな表情に戻ってしまう。
時に、悪魔のような残忍さを見せるのに、それが「悪者」としては見えないオネーギン。
そして、彼のカリスマ性を実感したのは、「歩いて袖に入る」だけで、観客の心も袖に引きずりこみそうになるオーラ。
鏡のPDDのラストでは、ズルズルっと吸い込まれそうになりました。
第2幕は、フォーゲルのカリスマ性と彼の描くオネーギン像が相まって、意図せず、周りの運命まで操り、歯車を次々と狂わせていく様が圧巻。
恐らく、自分ではそんなつもりはないのに…というのが本当に恐ろしい。
親友を撃ってしまい、タチヤーナにジッと見つめられた時、漸く自分の生き方が、多くのものを手放すものだったと気がつくのです。
「周りからの期待に応えよう」とパーフェクトを意識していたはずが、自分にとって大切なものを失う生き方で、もう取り戻せないと悟った絶望感。
ただ、あの時点でも、「自分の気持ちに素直になる」ことは、まだできない。
第3幕で、漸く自分が求めていたものに気がつくものの、タチヤーナには全くその気持ちは届かないのですよね。
彼女の方が、一足先に、人生の階段を一段上ってしまったから。
パ・ド・ドゥでありつつ、2人の気持ちは一度も交じり合わず、終始一方通行。
本来、パ・ド・ドゥで、パートナーへの気持ちが見えないのは致命傷ですが、ここではそれが見事に効いていました。
こう思ったのは、エリサ・バデネス演じるタチヤーナが、かなり芯が強い役づくりだから。
第1幕、第2幕までと、第3幕で、彼女のタチヤーナは決定的に変わります。
それが変わるのは、あの第2幕ラストで、親友を撃ったオネーギンを見つめるところ。
第1幕で、2人が最初に見つめ合った時に、タチヤーナの中での「オネーギンと私の物語」が動き出しますが、その同じ見つめ合いを通じて、2人の物語は完全に終わります。
あの瞬間、タチヤーナが思い描き、鏡から現れた「理想の王子様」は、まるで鏡が割れるように、粉々に砕け散ってしまいます。
その後での第3幕、どこか周囲の期待に応える形での結婚をしたといえる彼女ですが、その姿には自信が満ち溢れていて、充分に幸福なのですよね。
それ故に、彼女にとっては、オネーギンは過去の人でしかない。
かつては鏡から出てきた「理想の王子様」が、今はドアから入ってきた時、彼女の中では、既に答えは出ているように見えました。
それが見事に表れていたのは、タチヤーナのオネーギンへの身の委ね方の違い。
鏡のパ・ド・ドゥでの彼女は、自らオネーギンに全力で突っ込んでいって、完全に身を委ねています。
高く上げた脚や、バネのように限界まで反らせた背中は、彼女の天へも昇るような恋心を体現。
それが、手紙のパ・ド・ドゥでの彼女は、オネーギンへ身を投げ出しはするものの、自立しているのですよね。
自分の身体がきちんと支えられていて、オネーギンへ身を任せることが一切なく、背中をたっぷりと反らせて、彼への未練を感じさせることもない。
「バデネスって、ここまで身体で語るバレリーナだったのか!」と驚きました。
勝手に、子鹿のように跳ねて、キビキビしているイメージを持っていてごめんなさい。
「どうして、ここで脚を上げるのか」
「どうして、背中を反らせるのか」
その意味が、ビシビシと伝わってくる身体表現であるおかけで、一歩間違えば、アクロバットになりかねない大掛かりなリフトも、登場人物の感情表現になるのですよね。
いや〜、自分が観たかったバレエってこういうことでした。
「脚を上げればいいってものじゃない!」と、バレエコンクールの度にがっかりする私、満たされました😅
これだけでは、「スターが素晴らしかった」で終わりそうですが、作品自体が素晴らしいと思えたのは、他ソリストを含めたシュツットガルト・バレエ全体の一体感があってこそ。
どこか現代的で、世渡りがうまそうな(褒めてます)マッケンジー・ブラウンのオリガと、まるで詩人のようで、内に青い炎を秘めたガブリエル・フィゲレドのレンスキー。
この2人、第1幕では幸せいっぱいそうですが、どこか後半の悲劇を想像させる、2人が交じり合うことはできないイメージも。
恐らく、オーソドックスなオリガとは違う、「自らの意志」をタチヤーナとは違う意味でもったオリガだったのもあると思います。
第2幕で、オネーギンの挑発にのる場面も、「状況に流された」というより、「自ら選んだ」側面を強く感じて、どこかファム・ファタールを思わせて。
フィゲレドのレンスキーが、どこか夢想家であるが故に、自らの手で人生を歩いていきそう(自立とは違う)なオリガとは、心の奥で結ばれることは無理だっただろうと感じました。
決闘前のお別れの抱擁、あれが、第3幕でのグレーミン公爵とタチヤーナの抱擁と合わせ鏡のようで。
グレーミン公爵とタチヤーナが、深い結びつきをもっていたかは解釈が分かれると思いますが、この日のタチヤーナは、「グレーミン公爵夫人」であることを選び続けた意志をもっていたので、それがオリガとは対照的。
また、素晴らしかったのが、コール・ド・バレエ!
まるで、絵の具をカンバスに散りばめるように、舞台に彩りが広がっていく様子を恵まれたお席で観られたので、とにかく美しかったです。
生身の人々でありつつ、「時間」、「一般社会」、「世間の目」、「感情の交錯」、「虚しさ」といった、抽象概念を体現していたのがお見事。
平均年齢は、相当若く見えましたが、一人一人が「芸術家」として、「今のシュツットガルト・バレエが紡ぐオネーギンの物語」を表現していました。
「揃っていて綺麗だね」ではない、個が合わさった時の相乗効果で、絵画や音楽、物語が動くみたいに見えて!
こうしたバレエを表現できるカンパニーが、まだあったのかと嬉しい驚きでした。
これだけでも「後世に語れる名演を観た!」と思っていたのですが、2日目は、芸術の神様が微笑んだパフォーマンスが待っていました。

オネーギン:フリーデマン・フォーゲル
レンスキー(オネーギンの友人):ガブリエル・フィゲレド
ラーリナ夫人(未亡人):ソニア・サンティアゴ
タチヤーナ(ラーリナ夫人の娘):エリサ・バデネス
オリガ(ラーリナ夫人の娘):マッケンジー・ブラウン
彼女たちの乳母:マグダレナ・ジンギレフスカ
グレーミン公爵(ラーリナ家の友人):ロマン・ノヴィツキー
近所の人々、ラーリナ夫人の親戚たち、
サンクトペテルブルクのグレーミン公爵の客人たち:シュツットガルト・バレエ団
指揮:ヴォルフガング・ハインツ
演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団