ブログにも少し慣れてきたので、

私達の暮らしが一変するきっかけとなった夫の脳梗塞発症のことを

振り返って書きます。

 

 **入院直後のことを書いた記事はこちら

 

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夫が脳梗塞で倒れたのは2018年10月のある朝。

夫は当時50代後半。

子どもが小5で、中学受験に向けて親子共々忙しい日々を送っていた。

 

普段は一番先に家を出る夫が、

この日はたまたま外出先直行で遅めの出社。

私と子どもは玄関で夫に見送られ、先に家を出た。

 

今思えば、ほんとにあぶなかった。

家で一人の時に倒れていたら、そのまま死んでいた可能性もある。

正直言うとその後、

「あの時死んでくれる方がまだよかった。

こんなに嫌いにならずに、私も子どもも優しかった彼の

美しい思い出を胸に抱いて生きていけたのに」

と何度も思うことになるのだけど。

「ひどい」と言われるのはわかっている。

いい歳して、周りから「ラブラブ」とからかわれるほど仲が良かった私達に

この後、どんなことが起きて

私と子どもがどんな目にあってきたのかは、追い追い書いていきます。

 

8時半頃だったんだと思う。

夫は家を出てすぐ、めまいがして足元がふらついたそうで、

そのまま倒れこんだところを通りかかった人が救急車を呼んでくれた。

隊員の方が、

意識が朦朧としている夫のスマホを指紋認証でロック解除して

発信履歴からリダイヤルで私に電話をくれたけど、

最初は会議中で出られなかった。

2回目に電話がつながり、

タクシーを飛ばして病院へ。

 

車中、看護師から脳梗塞の可能性が高いと告げられ、

「命の危険が高まった場合には急遽、リスクのある処置を選択せざるを得ない。

(後で確認したところ、強い薬で血栓を溶かす「脳血栓溶解療法」のことで、

大出血に至る危険性もあるらしい)

その場合は奥さんの同意が必要なので、

移動中も電話に出られるようにしておいてください」。

怖くて、膝のがくがくが止まらなかった。

 

病院に着いて「とりあえず一命はとりとめ、意識もあります。

もう少ししたら処置が終わり、会えますよ」と言われ、

泣きながらお礼を言った。

以下は看護師から聞いた話

搬送直後はぼーっとした様子だった。

何度も名前と住所を聞くと、やっと答えられた。

左手と左顔面に麻痺があったがその後、改善して左手足も動くようになったので

脳血栓溶解療法は適用外と判断した。

 

MRIで右側頭部に中程度の梗塞が認められた。

右の頸動脈が詰まって血流が途切れている。

反対側からの血液の供給によって何とかなっている。

血流が足りないところで急に血圧が下がり、

血管の弱いところに血栓ができた可能性がある。

到着後、1時間近くして夫と会えた。

第一声は今も忘れない、「Daiちゃん、よう来たなあ」だった。

「急に足がもつれて倒れ、歩道の白い柵から首だけ出して、

もがいたところまでは覚えてるんだけど」。

弱々しい声ながらも意識はしっかりしていて、

手を握って「大変だったね。よかった、ほんとによかった」と答えた。

 

帰宅して、入院の準備をしてから学校に子どもを迎えに行った。

事前に先生に連絡しておいた上で

体育館にいた子どもを呼び、ショックを与えないよう努めて冷静に

「お父さんがちょっと具合が悪くて入院することになって…」と言ったのだけど、

子どもはそれだけで半泣きになっていた。

「大丈夫。元気だから、病院で会ったら安心するよ。何ともないからね」。

子どもを伴いタクシーで再び病院へ。

 

夫は子どもの顔を見ると、うれしそうに

「ななみちゃんは学校来てたか?」と、

当時、子どもが片思いをしていた女の子の名前を出した。

父親の手を握る息子。

 

 

その後、私は夫のこの手で何度も殴られ、

痣ができ、

それ以上に心がずたずたに傷つけられることになるなんて

予想もしなかった。

生きててくれてよかった、神様ありがとうー。

心の中で繰り返し、つぶやいた。その時は。

 

入院の手続きを終えて帰宅し、

子どもに「お父さんは必ず良くなって帰ってくるよ。

万が一、少し身体が不自由になってしまっても、

お母さんとカオルの2人で、お父さんを助ければいい。

今までと何も変わらないから大丈夫。

お父さんは病気を治すために病院で頑張ってくれるから、

カオルとお母さんも、淋しくてもしばらくは2人で頑張ろうね」と話した。

子どもの動揺はおさまり、すっかり安心していつもより早めに寝た。

 

長い長い一日はこうして終わりかけた…けれど、

その後、義母から電話。

移動中や病院から数回、メールと電話で知らせてあった病状を

あらたえて伝えた。

とりあえず一命はとりとめたけれど、

まだ出血の可能性があり、先生や看護師が万全の体制でみてくれている-。

 

この後、義母が発した言葉を私は一生忘れない。

驚き、ショックではあったけれど

この時点ではまだ、悪く受け止めないようにしようという制御が自分の内で働いた。

夫が命にかかわる重篤な病気になったその日のうちに

身内のことで別の問題を抱え込みたくないという自己防衛機能だったと思う。

この件についてはまた別の日に詳しく書くけれど、

その一言とは

「とりあえずでも手が動くなら、

今週末お見舞いに行った時、

お父さんの遺産の相続放棄の書類にサインしてほしい。

税理士から言われていて、期限が間近なのよ」。

 

ちなみに、夫が倒れたのが月曜で、

新幹線とJRで計4時間半ほどのところに住む義母と義妹が

「お見舞い」に来たのは、5日後の土曜日だった。

このことについて、

私は長いこと、特に何とも思っていなかったけど、

その後の2人の言動について友達やきょうだいに愚痴をこぼすようになってから

彼女たちに言われたのは、

「死んでもおかしくないほどの大病なのに、

実の親やたったひとりのきょうだいが5日たたないと来ないって

信じがたいと、実は思ってたよ」だった。

今では、私もそう思う。

 

義母は

「心配だからすぐにも会いに行きたいけど、

歳だから一人では行けないし、

紀子(義妹)は息子が受験生(二浪で成人していたんだけどね)だし、

犬もいるから、週末にならないと家をあけられないのよ」と言っていた。

義妹は専業主婦でその夫は単身赴任、

娘は半同棲中のオトナで、

今から思えば、家をあけやすい条件がそろっていたと思うんだけど。

 

義母の信じがたい言葉に、

「この後のしんちゃん(夫)の状態がどうなるかまだわからないけど、

様子を見て(書類へのサインのことは)本人に話しておきますね」と返して電話を切った。

この一件で心身の疲れはピークに達し、

今度こそ本当に長い一日が終わった。

一方で、その日はわが家の長い冬の時代の始まりでもあった。