デスクトップ上の整理途中に気付きました。
長期間、意識もせず当たり前のように存在した画像数枚
画像のプロパティを見ると、画像の制作年月日は2020年1月18日
4年間もスルーしていました・・・
この様な本を買いましたと、簡単に紹介した記憶が有るのですが・・・
本日は、その画像を使ってのネタです。
文庫本『秀吉の悲劇 抹殺された豊臣家の栄華』
PHP研究所 1989年8月 津田三郎 発売時価格¥420(税込)
文庫書き下ろしとありますから、ハードカバー本はありません。
現在では絶版となっていますから、中古市場を探さねばなりません。
自分が入手した中古価格は¥80でした!
この文庫本の簡単な説明を裏表紙から。
豊臣家滅亡後、家康により豊国神社が破却されたことは知っています。
実は家康による破却だけではなく、妙法院による破却の事実も明らかにしています!
妙法院による破却は、殆ど知られていないでしょう。
本書は、豊国神社の別当・神龍院梵舜が残した「梵舜日記」を用い、悲惨な出来事や歴史的事実に光を当てています!
豊国神社 御霊屋はどこに?
先ずは目次からご覧いただきましょう。
上の画像の中央付近!
家康による第一次破却、妙法院による第二次破却とありますね。
「沙汰によって方広寺大仏殿の住持となり、・・・門前町も手にしたばかりか、三十万坪にのぼったといわれる豊国神社の社地の大半をも下げ渡されて、・・・」大きくなった妙法院門跡。
幕府の容認が有ったのでしょう。
今もある妙法院門跡による「あれ寄こせ、これ寄こせ」で秀吉死後に創建された豊国神社は姿を消しました。
神龍院梵舜とは❓
京都の吉田神社の神官であった吉田神道家の出身。
9代当主吉田兼見の弟が豊国神社別当・神龍院梵舜
この梵舜は、50年にわたる「梵舜日記(舜旧記)」を書き残しています。
その日記の中には、嫌がらせの様な破却の様子が次々に。
そんな中、興味ある事実もありました。
社殿を始め付属の建物は次々に壊されましたが、ご神体まで破却されたのではありませんでした
豊国大明神 遷座
豊国神社の破却が進み、連日のように悲嘆の言葉を日記に書き綴った梵舜。
梵舜は、本殿で密かに祭祀を続けていました。
妙法院の要求はエスカレートし、豊国神社は姿を消します。
しかし、日記には意外な事実が記されていました!
妙法院による本殿明け渡しの要求にそのまま応じていたわけではなかったのです!
豊国社消滅の直前、梵舜はある行動を起こしていました!
秀吉の神霊を納めた本殿内陣にあった御霊屋を、吉田の屋敷神龍院内へと移していました!
この御霊屋、小さな祠のようなものではありませんでした。
大きくて神龍院の門からは入りませんでした!
50人という人足を雇い『遷座』しました。
御霊屋は屋敷内の屋外に置かれ、屋根葺きが行われ、葺き終わり後、遷座祭が行われました!
遷座された「豊国大明神」は世を憚り「鎮守大明神」と名を変えて呼ばれていきました。
遷座を済ませた後、鎮守大明神の神事を終えると、梵舜は神前に供えた神供を高台寺の北政所に届けています!
鎮守大明神前では、吉田神道家の人たちとともに、秀吉側室のための祈祷や、北政所病気平癒の祈祷も行われていました。
梵舜が亡くなる直前、日記を書けなくなると身近にいた者が代わりに日記に「鎮守大明神」と書くべきところを「豊国」と書いていました。
間違いなく、豊国神社のご神体は吉田の神龍院に遷座されていました
著者は吉田社家があった地域、吉田神社を訪ねます。
しかし、明治維新以降の吉田家の没落等により、神龍院の位置、「鎮守大明神」の行方は分からず!
『ご神体』ゆえに粗末には扱われていないとは思いますが。
豊国神社のご神体、今はどこに?・・・
吉田神社周辺、散策でもしようかな。。。