今日は仕事はお休みの日です。

仕事の日は朝4時半に起きますが、今日はお休みなので、1時間遅れの5時半に起きました。4時半では暗いけれど、5時半には少し明るくなっています。

 

起きて伸びをしたり深呼吸をすると、背中やわき腹が痛くて、確かに肺に何かがあると感じます。

でも、とても元気です。

 

仕事がある日はいつも、仕事が終わる前から、帰ったら何を食べようかと考えます。

なるべくお金をかけずに、おいしく体が健康になるようなものを食べたいと思っています。

きのうのお昼は、小松菜のお浸しとミニトマト、焼サケ一切れ、油揚げ大根シイタケの味噌汁、ごはんです。なかなかいいと思っています。

 

食べ終えると少し満足ですが、仕事から解放されて、疲れを感じます。

食卓のイスに座ってテレビを見ながら、しばらくぼーっとしています。そしていつも「ああ、どうしよう」と思います。何か不満があるわけでもないのですが、さみしいような空しいような気分になります。

ミシンを動かして何かを作るのは楽しいし、漢字を忘れないように書き取りをしたり、読みたい本もあるので、やりたいことも、やらなくてはならないこともたくさんあります。それなのに何もすることがないなあと思います。

 

例えば私が、スカートやブラウスやエプロンを作っても、もちろん作り上げた達成感や満足感はあるのですが、今一つ物足りなさを感じます。誰かに見てもらいたいのです。

 

子育て中だったころは、時間もお金もいくらあっても足りないと思っていました。とにかく自分のことの9割くらいは、いつも後回しです。

今、娘はちょうどその時期で、とにかく忙しそうです。自分の体調が悪くても、子どもの病院を優先させることが当たり前のようになっているので、塾や部活の送り迎えなど、要請があればいつでも出動できるように待機しています。

 

そして私自身、自分のことはなるべく自分でするようにして、娘たちには手を煩わせないようにがんばっています。

 

先週の日曜日でしたが、朝7時45分にラインを送ったのに、返信がきたのが夕方でした。既読すらつかず、私は一日中、いろいろな恐ろしい想像をしていました。(どうも、スマホの調子が悪かったみたいなのですが)

私は出来上がったエプロンの写真を送ったので、見てほしかっただけなのです。

 

運よく私はまだ働くことができて、好きなものを食べて、暑くも寒くもありません。

でも心は、何だかカサカサしています。

この前新聞を見ていて、「自分は生きていくのには、何も困っていないけれど、誰にも何も求められていないような気がして、人としてこれでいいのだろうか」という高齢の方の投書が目に留まりました。

孤独の死亡率は、ほかの病気よりも高いとも聞きます。

私やこの投書の方は、孤独という状態なのでしょうか。

 

人は一人では生きていけないので、世の中に出て何か活動をしなければなりません。

仕事であれば、職場内の関わり合いもあります。そこで何か事故があっていやな思いをしたり、自分の失敗でも落ち込んだりして、ああ、いやだなあと思うこともありますが、まったくの一人になってしまったら、私は自分を見失ってしまうような気がします。

 

自分というものは、他人に認識されてはじめて、自分になれるということもあるのではないかと思います。

ただ他人は、いつも必ずしも、自分をありのままにに認識してくれるものではありません。自分が望んだとおりに認識してくれるものでもないし、認めてほしい自分を認めてくれるものでもないので、そこが厄介です。

 

これは私の個人的な問題だろうと思っていますが、時々自分が、この世の中の誰とも何ともつながっていないような感覚に陥るのです。自分ではつながっていると思っていたのに、糸を手繰ってみたら、実はつながっていなかったというような恐怖です。

思い込みでしょうか。哲学的な悩みなんでしょうか。

他の人はどうなんでしょう。人ってどう生きればいいんでしょう。

 

つけっぱなしのテレビから、ハウルの動く城の曲、人生のメリーゴーランドが流れてきました。私の好きな曲です。うれしいことも悲しいことも人生はグルグル回る。

ここ2,3日は、きっとさみしいと思う日なのでしょう。

明日はどんな日になるか誰にもわかりませんから、確かめてみなくては、です。

 

 

好きな布を並べてみました。10センチ角くらいです。

できるはず、と思って作ってみますが、形はいびつ。キルティングもへた。

このごろの体調は平穏です。

ほとんど病気などないように、元気に過ごしています。

 

仕事を頑張った日は少し疲れますが、いつもしていた昼寝もせず、そうじや片付けをしたり、パッチワークやミシンを動かしたりしています。なんか自分でもすごいなあと思うし、うれしいです。この調子でいけばほんとにうれしいのですが、何事ももっととか、ずっとを欲張ってはいけません。

 

最近SNSを見ていた時に見つけたマンガの話です。

友達が引っ越していくことになったけれど、最後のお別れがうまくいかなくて後悔してしまいました。残った友人と「あの子のために何かしてあげたかったのに、うまくお別れができなかった」と話していたのですが、「でも後悔もなにも残らない完ぺきなお別れなんて、かえってさみしいよ。きっと後悔が残ったほうがいつまでも覚えてられる」みたいなことを言うシーンがあって。

人生が後悔だらけの私は、とてもほっとしたんです。後悔があるっていうことは、これからまだ人生が続くということかもしれません。

 

母がいよいよという時、知り合いに言われた言葉は、「後悔がないように」というものでした。その時はその友人の言葉通りに、後悔しないように努力しました。けれど、がんばれば頑張るほど、私は母から離れたくてどうしようもなくなってしまったのです。

 

頭では感謝もしているし尊敬もしている。でも私の中の何かが、母を拒絶してしまうのです。それはどうしようもないものでした。

 

母の具合が悪くなったのは、コロナの感染症が蔓延し始めたころで、マスクの品切れがあったころでした。それをいいことに、お見舞いにもロクに行かず、最後は何もかも病院に任せてしまいました。もちろんそういう時期でもあったのですが。

死にぎわにさみしい思いをさせてしまったという後悔です。

 

母は結婚した相手に恵まれず、とても苦労した人でした。私たちのために一生懸命働き、年老いてからも私たちを思っていてくれました。残念ながら弟は5歳の時に死んでしまうという不幸も経験しています。

 

時々は母は自分の不幸に耐えられず、私はいつも愚痴と不満の受け皿にされてしまいました。しかも何度か家を出たこともありましたが、私はいつも置き去りにされるのです。妹と弟はつれていくのに。

子どもの頃の私は、それを受け取る以外できずに、たぶん人間不信になってしまったように思います。それと自己肯定感のない人になってしまいました。何でもかんでも自分を責めてしまう癖があります。

 

母の人生が大変だったのは知っているけど、私の人生もなかなか大変だったんです。自分では幸せになろうともがいてがんばっているのに、いつも裏目に出てしまうような気がしていました。

 

母は今でいうところの毒親だったのでしょうか。

そういう部分はあったかもしれないけれど、軽々しく一言で言ってしまってはいけない気もします。きっときっと、彼女なりの愛情をもって私たちを育ててくれたと思うのです。

 

テレビのドラマとかで、とても愛されている人の話なんかを見ると、「ああ、私も誰かに愛されたかったなあ」と思ってしまします。

母も、母を幸せにできなかった父も、彼らなりに愛をもって私たちを育ててくれたのでしょう。その愛はきっと、泥にまみれて私たちには伝わり切れなかったのかもしれません。

 

そんな私も親になることができて、大事に子どもたちを育てたつもりでいるのですが、本当のところはわかりません。私が愛だと思っているものは、実は愛ではなかったかもしれないし、愛だとしても、そう簡単に伝わるものでもないのかもしれない。

 

まあ確かに親子でも夫婦でも、いつもべたべたしているのだけが、愛の証だとは思いません。私と娘の関係も、さみしいと思うくらいあっさりしています。でも娘が私を思ってくれていることはわかります。

 

人生を後悔なしに送れる人なんて、めったにいないと思います。今でも母を一人でさみしく逝かせたことは、私の心を責めます。

 

後悔はあるけれど、いつまでも愛されたいとばかり言っていないで、今度は私が愛する側に回らないといけないと思っています。もう時間もあまりないないみたいですし。もしかしたら愛は時空も超えると信じて。

 

註)私にとっての愛とは、その人の笑顔と幸せを思う心。

 

恐竜柄で2枚つくりました。

モデルがいるといいなと思いました。

 

先週金曜日は定期通院の日でした。

結果はうーんです。

 

自覚症状としては、以前はなかった咳や痰のからみ、背中やわき腹の痛みなどです。

咳もたんもほんの少しなので、苦しいということもないのですが、きっとがんのせいだと思うと、やっぱりあまりいい気分のものではありません。

背中やわき腹の痛みも、普段は感じないのですが、高いところのものを取ろうとしたり、ちょっと無理な体制の時だけです。

 

先生の所見では、レントゲン写真も前回と今回とでは、あまり変化もないし、血液検査の結果も異常はないようです、気になると言えば、腫瘍マーカーの数値がちょっと高かったことです。

でもまあ腫瘍マーカーというのも、何かのはずみで数値が上がったり下がったりすることがあるみたいです。少し調べてみましたが、私にはよくわからないものでした。

 

急にどうということもないようなので、様子を見ながらもう一か月このまま継続です。一か月後もう一度詳しい検査があります。

 

がん宣告されたのは、去年の11月17日です。今月でほぼ一年経ちました。まだ17日までは間がありますが、とりあえず一年は元気に生きてきました。途中皮膚に異常が出て、休薬もしました。

このごろは自分でも驚くほど元気です。元気だけれど、病気はなかなか侮れないなと感じています。

去年初めて薬をのんだ時は、少し不安はあったけれど、あまりにもよく効いて、なーんだと思ったのでした。でもやっぱり、そう簡単ではありませんでした。

 

爪も髪もボロボロで、多少の不便はありますが、全体的にはとても元気で、気持ちも前向きだと思います。通院の結果はイマイチでしたが、まあ何とかなるでしょ、みたいな気分です。

 

先月の最後の日曜日は、PCの操作を教えてもらう日でした。月に二回ほど教えてもらっていて、もう半年経ちます。

おかげでブログも開設し、続けることができています。このままもっといろいろなことが覚えられたらいいなと思っていたし、ずっと続くと思っていた日曜日の午後だったのに…。

 

私の頼もしいPCの先生が転勤することになってしまいました。働いていれば転勤ということもあることなので、そこはすんなり受け入れられたのですが、内心少しあせってしまいました。

「えっ?私どうする?大丈夫?ブログ大丈夫?わからないことや不安なことがまだいっぱいあるのに、私どうする?」

みたいな感じでした。とにかくブログは続けられるように、いつもより気合を入れて、しっかり操作の確認をしました。

 

「転勤と言っても、半年くらいでまた戻ってこられるみたいなので大丈夫ですよー。それまでブログがんばってください。今の調子で大丈夫ですよ。戻ってきたらまた何でも聞きに来た下さい」なんて言ってもらえたのですが。

 

やさしい彼といる時間は、自分が大丈夫かどうかということばかり考えていました。転勤していく彼自身だって、さみしかったり不安だったりするだろうに、引っ越しとかでいろいろ忙しくて大変だろうに、いい年をして、その時は自分のことしか考えられませんでした。

 

でも私は良い人ぶる人だし、物わかりのいい人ぶる人で、状況に応じて自分で何とかしようとしてしまいます、「えー。困る」とか「いや、さみしい」とか言えれば、よっぽどいいのですが、そんなことを言ってはいけないと思っています。さみしい気持ちや不安な気持ちをごまかそうとしていたようにも思います。

 

なんとか自分の気持ちをごまかして家に戻りましたが、一人になるとたぶん本当の気持ちが出てきたようで、すごくさみしいと感じました。さみしいというか喪失感というか、何か一つの世界がなくなるような気がしました。何も手に着かず、しばらくボーっとしてしまいました。

 

でも、若いけれどしっかりしてて、気遣いのある人なので、どこに行っても実力を発揮できると思います。また戻ってきたら、まだまだいろんなことを教えてもらいたいです、楽しみにしています。

 

ちょっと、いろいろありましたが、まあ何とかなるでしょう。

それほど心配しなくても大丈夫です。

 

 

エプロンをつくりました。

もう5,6枚作る予定なので、しばらくエプロンシリーズが続くと思います。

写真の撮り方がむずかしいと思いました。

今日も私は元気です。

一週間前と比べると、体調も随分いいような気がします。

 

以前は、本当に何もやりたくないー、と思って座ってばかりいました。じっと座っていると何となく、手持無沙汰で暇で、ろくでもない考えばかりが浮かんできていました。

 

ここ4~5日は、その何もやりたくないという気持ちが出てきていません。やることが浮かんでくると、何の抵抗もなく行動に移っていきます。

うれしいし、ストレスも減って気が楽になりました。

やらなくちゃいけないことや、やりたいことがあるのに、体が拒否してできないのは、ストレスだったと気づきました。

 

先週の土曜日は、中学生の孫娘の塾の送迎というお役目がありました。

車の中で、いろいろな話をして楽しかったです。

私が職場の楽しいことや、困ったことなどを話すと、興味を持って聞いてくれました。そして「そうかあ、私もがんばって働く。年をとっても働くぞ」と言ってくれました。「まずは高校合格だ」」

 

「でもさあ私、テストの点とかひどくて、自信ないんだよね」と言うので、「ああ、だめだめ、そんなこと言っちゃ。絶対大丈夫って言わなきゃ」と思わず言ってしまいました。すると「ああ、言ったことが実現してしまう、っていうやつ?」と言います。ここも勉強したし、あそこも勉強頑張ったから大丈夫って思ったほうがいいよと伝えました。

 

実際世の中の大抵が思い込みなんじゃないでしょうか。もしかしたら、思い込まなければ世の中はうまくいかにのかもしれないし、成り立ちもしないのかもしれないと思います。

 

例えば結婚すれば幸せになるとか、さみしくないとか。そんなことはないって、もうずいぶん前からさんざん言っているのに。

でも、結婚したら幸せになるとか、さみしくないとか思いたいんですよね。

もちろん結婚して、多くの人たちは幸せになっていると思いますが、単純に結婚イコール幸せではないと思っています、

 

私は、どんな不都合や不満があっても、結婚したから幸せだと思い込んで苦しくなったりするのは違うと思うし、結婚しない人に対して、優越感を持ったりするのも違うと思います。

 

何が正しいとか、何が幸せかとかは、ある程度まわりの人たちの影響があると思います。

小学生や中学生のころ、親や先生がそう言ったから、または友達の何人かがそうしているから、それが正しいだの、そういうものだと思っていました。

あの子は少し変わっているから、意地悪してもいいとか、私のほうがお勉強ができるから、あの子はばかにしてもいいんだみたいな。

 

何かの本で、友達がたくさんいると幸せだし、友達がたくさんいる人が偉いみたいなことが書かれていると、自分には友達がいないから、人として自分はダメなんだと思ったことがあります。

 

でも、よーく考えてみると、友達というのもよくわかりません。いつも一緒にいるのが友達なのか、いつも共感しているのが友達なのか、困ったときに助けたり助けられたりするのが友達なのか。思うに私にはそういう関係の人はいません。

でも、お互い思いあう人はいます。

 

そういえば、私が小学校だったか中学校だったか、すっかり忘れてしまったのですが、卒業の時に、お世話になった先生たちに挨拶に行ったとき、一人の女の先生が言ってくれた言葉があります。

「あなたはまじめで、言われたことは本当にきちんとできる人だけど、あなたの人生は言われたことだけをやっているだけじゃだめなのよ。自分で考えて自分で決めて行動しないと。大変だけれど幸せになってね」みたいなことです。

当然のように、その時の私には、せっかくのその言葉の意味がよく分かっていませんでした。

 

それから大人になって、人生を重ねるにつれ、だんだんとその意味が分かってきました。教科書通りに間違いなくやっても、教科書そのものが時間がたつにつれ変わっていくし、別の教科書も出てきたりして、そう簡単に幸せにはなりません。

今までそういうものだと思っていたことが、実は違うものだと気づくことになります。

 

思い込んでいると楽なことがあります。そういうものだと思っていると、何の抵抗もなくできてしまうことがあります。朝は5時に起きるものだと思っていると、ちゃんと起きれるというようなこと。だけど、それは時にとても危険なこともあります。

何の抵抗もなく誰かを傷つけたり、困らせたり、殺してしまうことさえあると思うからです。

 

私は孫には、ちゃんと勉強をがんばったから高校に合格できるって思ってほしいです。そういうことに関しては思い込むことの大切さがあると思いますが、安易に思い込みだけで行動するのは危険だと思っています。

まず私自身が、根拠のない思い込みから、なるべく解放され、みんなと一緒に幸せになれたらいいなと思います。

 

 

ずーっと前につくったものです。

 

じつはきのう、二時間くらいかけてブログを書いたのですが、いざ投稿しようと投稿ボタンを押すと、何かメッセージが出てきて消えてしまいました。

ちょっとショックで、何のメッセージだったかどこを触って消えたのか記憶にありません。なので今日、気を取り直して書きます。

 

いつも通り私は元気です。

髪の毛がないところがあるけれど、うまく隠せているし、つめが割れたりはがれたりするけど大丈夫です。爪をつかえないので、針仕事は縫いにくいですがなんとかなります。プルトップの缶詰が開けられないけど、道具を使えば大丈夫です。皮膚の状態はカサカサしていますが、保湿剤を塗れば大丈夫です。

 

仕事もがんばっています。食事も買い物も洗濯も、一人でできます。掃除と片付けはそれなりにしていますが、多少難ありです。

でもまあ、良しとしましょう。

 

私は早朝6時から働いていますが、8時までの間に、通常は一人で弁当を70個から100個くらい作ります。行事があって忙しいときは、自分の作る分のほかに手伝いに入ります。

 

弁当を作るといっても、ごはんやおかずなどの材料はすべてそろっていて(もっと朝早くから厨房の人ががんばっています)、私はそれを盛り付けていくだけなのですが、数が数だけに、効率よく手際よく動かないと、時間に間に合いません。

より早くおいしそうに、しかも衛生面での安全に気を配って作業する、職場の工夫と技には感心しています。

 

なのでつい、病気のことも忘れて思いっきり働いてしまいます。少し重いものを持ったり、ちょこまか動いたり、手順を考えながら働くのは、私の健康にとって、とてもいいことなのではないかと感じています。ここで少しがんばっているから、元気でいられるんじゃないかと思います。

病気だと仕事を辞めざるをえなかったり、年齢を理由に働くことができない人もいる中、病気でも年寄りでも働かせてくれる会社には感謝しかありません。

 

他の人たちはいろいろな時間帯で働いていますが、私は11時に仕事が終わって帰ります。うちに着くとほぼお昼になります。さすがにおなかが空いて、前の日に作っておいたごはんを食べます。

 

ご飯を食べ終えると緊張感がすっかりなくなって、急に疲れを感じます。

食べ終えた食器を洗っていると、「あー、何もかもいやだー」と口走っています。別に嫌なことがあったわけではないのですが、きっと過去に起こった出来事を思い出していやだと思っているのです。失敗したことやうまくいかなかったと、やりたかったのにやれなかったことなど。やりたいことが思うようにいかないことに焦っています。特に食器を洗っているときに起こる現象です。

 

私はすごく欲張りなんです。(今頃気づいたかという気もしますが)

物欲はそれほどないのですが、やりたいことが多すぎてこなしきれません。

それこそ病気にもなったし、68にもなったのだから本当に自分の好きなこと、やりたいことに絞らないと、何もできないまま死んでしまうことになりかねません。

 

でもね、でもでも捨てきれないし、あきらめられるものではないんです。私はいつまでたっても、なりたい自分があります。

ありもままの自分でいいとか、そのほうが幸せだとかいいますが、でもそれって、現状維持でいいっていうことではないように思いますが。

68才でも、もう少し隠しきれないこのおなかを何とかしたいと思うし、もう少しきれいになりたいとか思います。それも含めた、なりたい自分です。

 

まだ感情のふり幅も激しいなと思って、自分でもあきれています。

例えば「何もかもいやだ」と思ったとき、一体どんな顔をしているんだろうと、鏡を見たことがあります。何だかあっさりしていて、すました顔をしていました。

 

自分のふがいなさや、ダメさ加減に身をよじっているのに、すました顔をしているって、これが本来の自分なのでしょうか。欲にまみれている自分もありのままの自分なんですね。

もう少しの間、ありのままの自分でいましょ。

 

小物入れができました。1年くらいかかりました。

まるはかわいいけど難しかったし、高さはもう少し低いほうが使いやすかったかも。