今週は二回目の治療が始まります。

そして、先週金曜日は、二回目の治療前の検査でした。

結果は、白血球に関しては問題なしで、血小板は少し低いけれど、下げ止まり感があり、こちらも問題なしでした。

 

血液検査に関しては大した問題もなく経過しています。吐き気も全くありません。

食欲低下に関しては、あるといえばあります。便秘の影響もあるのかもしれませんが、時々左のわき腹が痛むのと、ずーっと胃がむかついて、食べたいと思いません。

 

が、ひとたび食べ始めると、おいしいと感じるし、量もそれなりに食べられます。

まったくもって、やせる気配もありません。複雑な心境です。

 

体力的には先週に引き続き、イマイチですが、先週よりは元気な気もします。

きのうは割と元気だったにのに、今日は動けないほどだるいという感じだったりします。

 

仕事はおかげさまで、いつも通りに働いています。

先週退院した次の日にも、ボーリングに行きました。スコアは相変わらずですが楽しかったです。がんでも、割と何でもできるんだと知りました。

抗がん剤治療中でも、体力的に普通の生活ができるということもわかりました。

 

今の私の生活は、それなりに何となくうまくいってると思っています。

わーい!ラッキー、という感じです。

 

体がひどくつらいときには、"うう、死にそう"と思って、気持ちも少し落ち込みます。でもこの頃は、体調の悪い自分とも、それなりに付き合い方がわかってきたようで、前よりも死ぬこと前提で物事を考えなくなりました。

 

がんだってほかの病気だって、自分で治してやろうと思わないと治らない、とかいいます。

病気以外のことも、例えば仕事も勉強も、うまくいくと思ってやらないと成功しないとか。そういうことをかいている本はいっぱいあるし、SNSにもそういうことがよく書いてあります。

 

もちろん成功させようと思って、努力したり工夫したほうが、準備不足よりもいい結果になると思います。ただ100%ではないと思っています。

 

私は今まで生きてきた中で、自分では結構強い信念をもって、ダイエットや英語の勉強や、そのほかいろいろ頑張ってきたつもりですが、未だにやせていないし、英会話もできません。はあ。

私が、やるぞ!と思っている、これは何なんだろうと思いました。もしかしたら私に、実は意志なんてものはないんじゃないかと。

 

私の場合、これを何とかしたいと必死になればなるほど、うまくいかないことがよくあります。そしてあきらめたとき、願いが叶うことがありました。

努力なんてムダなんでしょうか。

そうはいっても、努力の末に手に入れて物も確かにあります。

 

そして世の本には、信念と執着とは違うと書いてあります。執着すると、物事はうまくいかないようです。でも68歳の私にはその違いがわかりません。どちらも強く思うことじゃないんでしょうか。

長く生きていて、わかってくることもありますが、わかってくることと同じくらい分からないこと、どうしたらいいか悩むことが増えていきます。

年を取ったら、何もかもわかってくるのかと思っていたのですが、違いました。

 

今私は、がん細胞が減ったら、少しは体力もついて、終活の片付けがもう少しうまくいくんじゃないかと思っています。

そのための抗がん剤治療でもあるわけです。

 

抗がん剤治療も、私にとって一つの経験であり、実験です。

抗がん剤治療と一口にいっても、その人によって、使用する薬も少しづつ違うし、治り方も違うし、副作用の出方もいろいろのようです。

医療の方も、長い時間といろいろな人の経験をもとに進歩しているのだと思います。

私が抗がん剤治療をしても、それほど苦しまずに済んでいるのはその恩恵だと思っています。

まあ、あくまで私自身の場合として記録しておきたいです。

 

それから、せっかくまだ生きていて、それなりに人として活動しているので、まだ自分を使って試してみたいこと、やってみたいことがあります。

まだまだ実験してみたいことがあります。

 

まずはがんが治るという生活や食べ物を、ためしてみようと思っているところです。

うまくいくかどうかは分からないけれど、いろいろやってみなくちゃ、です。

今日も病院へ行ってきました。

週に2回ほど行っては、採血をして結果をフォローしてもらっています。

 

1回目の検査の時は、白血球の数値がやや落ちましたが、まあ正常範囲らしかったです。2回目以降白血球の量は持ち直して、正常のようです。

赤血球や血小板の量も正常域のようでした。

 

来週には、2回目の抗がん剤治療が始まります。

念のため、今週の金曜日にも血液検査があります。今回は初回ということもあって、念には念を入れてという感じです。

何だか丁寧に対応してもらっているようで、感謝の気持ちがわいてきます。

 

今回の抗がん剤治療で一番心配されるのは、白血球や血小板の減少です。白血球は少なくなると感染症にかかりやすくなって、人込みを避けるなど、より注意が必要になります。

でも私は、心配したほどではなかったので、仕事をするのも買い物に行くのも自由です。

 

もっとも出やすいと言われた、食欲不振や吐き気などもほとんどありませんでした。

元気いっぱいのような気もしますが、実はそれほどうまくいくことばかりではありません。

 

入院してすぐ便秘になってしまったのですが、それがずっと長引いてしまい、胃というか腸というか場所はよくわかりませんが、とにかくずっと痛いんです。痛みはまるでこむら返りのような痛みで、無意識のうちに一人で「いて、いて」と騒いでいました。

 

まあ1日24時間ずっと痛いわけではありませんが、でも痛みが強烈で意識がとらわれています。痛くて何もできない言い訳にしています。

ここ2週間ほどは、思わず弱音を吐きそうなほど体のつらさを味わっています。

 

何となく、そうだよなあ、自分だけ何もないなんてことはないよなあ、なんて思ったりして。

自分だけ何の問題もなく過ごしていたら、かえって不安を感じたのかなとも思いました。変な話、少し体がつらいことで得られる安心みたいなものも、私にはあるなと思いました。

 

みんなと同じような状況になることで得られる安心。同調圧力のような。

私はそれはおかしいと思っていたし、がんなんだから苦しまなければならないという考えはばかばかしいと思っています。

なのに現実では苦しむ自分に安心している。あーあ。

 

それと、今週はたんがからんで、よく咳が出ます。咳き込むとこれもなかなかつらいです。

先生に伝えると、「対処療法ならあります」と言われました。私は思わず「そういうものなんですね」と言ってしまいました。「そういうものなら大丈夫です」なんて。

たんは咳をして出せばいいだけですから。咳をしてたんを出せる私はエライ?

あとで考えると、自分でも一体何を考えているんだかという感じです。

 

それにしても、私が今まで何とか生き延びてこれたのは「そういうもの」という言葉です。概念?

「そういうもの」という考えで頑張れたことはたくさんあります。

今だって、朝6時から働きたいから4時半に起きるもの。まわりの人たちからは、よく頑張るねと言われるけど、そういうものと思っているから、さして苦も無くできてしまいます。

 

けれど「そういうもの」でなんでも済ませてしまうと、おかしいと思ったことでも、いろいろ丸め込んでしまう危険があると思います。

自分で自分に対して思っている分には、たぶんあまり問題はないと思いますが、この言葉が、自分から他人に向かった時、または他人から自分に向かった時は注意だと思います。

 

家事は女がするもの、母性はあるもの、男だから強くなければならないもの、常識的な行動・見た目、誰か(親とか先生)は敬うもの、全体のために我慢するもの、などなど。一見正しいように思えるけれど、気をつけたいと思います。

 

自由になりたいだの、自由に生きたいだのと言ってても、どこかでそういうものに丸め込まれている気もします。そしてやっぱり心のどこかで、年を取ると衰えるものと思っています。美しくなくてもしかたないと思っています。

けれど年齢に関係なく、若い世代とは別の健康や美しさがあると思いはじめました。

 

がんだし、おなかも痛いし咳も出るけど、カッコいい大人になることはあきらめなくてもいいことだし、あきらめたくないなあと思っています。

 

 

 

 

先週の月曜日は、入院のためブログはお休みしました。

前の薬をやめてから、10日程でしたが、その間、わき腹から背中にかけての痛みはなかなかのもので、きっとこれががんの痛みだと知りました。

 

月曜日は午後からの入院で、さっそくレントゲンと血液の検査がありました。同時に次の日にかけて、腎臓の検査もありました。

 

今回の治療は、抗がん剤治療になります。

3週間を一回として、4回行うものです。薬は点滴で体の中に入ります。

私の場合、今回は月曜日と火曜日で、検査と準備をし、水曜日の午前中に点滴の治療を受けました。少し緊張しましたが、体調は特に何か変わったこともありませんでした。

 

副作用は主なものとして、吐き気や食欲不振、それと貧血や白血球の減少などです。

でも、吐き気どころか食欲不振もなく、気のせいか痛みもかなり減少したように感じていました。

 

木曜日は午前中に、レントゲンと血液検査をすると、特に異常もないようで、もう午前中のうちに退院許可が出て、退院ということになりました。

念のため、月曜日から次の週の月曜日までの入院という予定だったのですが、早々に4日で退院です。退院はしますが、頻繁に通院の必要はあります。

こんな感じの治療を、3週間ごとにあと3回くり返します。

 

私は運よく、病院の近くに住んでいるので、検査も何か異常があるときも、すぐに病院に行くことができます。この後週に2~3回くらい通院することになりますが、自分で運転していけるし、その体力もあるので、私は恵まれています。

 

テレビなんかでよく見るような、抗がん剤による激しい吐き気とか、体調の悪さも特に感じることなく過ごしています。が、先週月曜日に入院した日から、今まで経験したことのない便秘に悩まされることになりました。

薬の副作用の項目の最後の方に、下痢または便秘という項目がありましたが、私の場合、治療前に便秘になってしまいました。

 

もともと便秘というものに、あまりなったことがなく人生を過ごしてきたので、改めて便秘の苦しみを思い知りました。

右のわき腹と背中が、圧迫されるような痛みで苦しかったです。

 

初めのうち、自分が便秘になるなど考えもせず、病院食も完食していました。

看護師さんに、出てませんね、下剤を出しましょうか?と言われましたが、自分でもまあ大丈夫だろうと思っていたし、看護師さんも、退院して家に帰ったら出るかもしれないしね、などとお互いに軽く考えていたのですが…

 

実際家に帰るとすぐ、もよおしたのですが、自分で出せないような状況になっていました。次の日がまだ金曜日でよかったです。

次の日の朝、病院に連絡すると、すぐに対応してもらえました。

 

抗がん剤治療では、治療の点滴薬のほかに、副作用を緩和するための薬が何種類か出されます。それを次の治療まで、決まった量と回数を毎日きちんと飲まなければなりません。

それに加えて、便秘薬まで何種類か出してもらったので、私の頭はいっぱいいっぱいです。久々に体がつらいと感じる一週間を過ごしました。

 

きのうの月曜日と今日は、全国的に急に寒くなり、びっくりしてしまいました。

雪国に住む私は、冬用のタイヤに交換しなくてはなりません。知り合いの、いつもお世話になっている整備工場に連絡して、タイヤを交換してもらいました。

これで早朝の出勤も大丈夫です。

 

私は木曜日の午前中に退院したので、午後から買い物に行ったり、職場にも退院の報告とシフトの相談に行きました。

退院時に、火曜日(今日ですが)は通院が決まっていたのでお休みをもらい、土、日、月と働かせてもらいました。

 

タイヤ交換に行った時のことです。整備工場の奥様とは、友人のように仲良くさせてもらっているのですが、がん患者らしくないといって、驚いていました。言われなければわからないほど、どうしてそんなに元気なの?と聞かれてしまいました。(本当はあまり元気じゃない)

彼女だって元気だし、何より私よりもずっと働きものです。

 

私は、人間といえど動物なので、動くものだと思っています。

体を動かす、ということが大事で、その人の健康にも幸せにも、いい結果につながると信じています。

仕事も、5時間くらいの立ち仕事ですが、それが体のよいトレーニングとかエクササイズになっていると思っています。

 

だから、私を働かせてくれている会社には本当に感謝です。みんなに感謝です。

まだ動けそうなので、しっかり体を動かして、もう少し頑張ってみようと思っています。

先週は、火曜日に検査を受けて、金曜日が診察の日でした。

何となく自覚症状はありました。背中やわき腹が痛くて、前よりも咳や痰が少しだけれど、増えています。

 

お医者様の所見として、以前怪しげだった頭骨の転移については、放射線治療のかいあって、転移はなしということです。ほかの骨に関しても、また骨以外の臓器にも転移はありません。

でも肺にあるがんは、どうも増えているようです。レントゲン写真では、自分で見ても、白い影は大きくなっています。

 

(えっ、なんでだろう。薬がきいてない?量を半分にしたから?)と思っていた時、

「もう薬が効かなくなっていますね」と先生がおっしゃいました。

(そうなんだ)

前に、この薬がずっと効く人もいるけど、一年半から二年くらいで効かなくなるという情報を、ネットで見たことがあります。

 

「それで次に効く薬はですね」と先生はどんどん話を進めていきます。前の薬とは別の副作用について、使い方、導入のための一週間の入院など。

(まっ、待ってくれ)と心の中で叫びます。

 

私の主治医は忙しいんです。呼吸器内科はいつだって混んでいるし、金曜日だって診察まで3時間も待っていたんです。言ってしまえば、次から次と診察して、予定を決めてこなしていかないと、病気で苦しむたくさんの人を救うことはできません。

病院として当然のことです。

 

もちをんそれは、わかっています。でも私の心と体はそのスピードについていけませんでした。そして先生の説明をすぐに受け入れることができない自分がいました。

私は少しパニックに陥ってしまったのかもしれません。

たかが薬を変える、たかが1週間の入院。けれどまた少し環境が変わり、お金のことや仕事のことや、自分の目指す生活がどうなってしまうんだろうと、頭の中で一気に広がってしまいました。

私は自分の今の生活を変えたくないんだと思います。

 

今日も昨日と同じ生活ができるということは、幸せの一つなんだと改めて感じました。いつもと同じようにできる生活っていいなと。

この1年は、何とか無事に生きてきました。今回、薬を変えることで、私の生活がどうなるのか不安です。

 

平和な毎日の中で、私は時々、自分が何のために生きているんだろうと、考えてしまうことがあります。私が生きていることに何の意味もないと思います。

お腹が空くから食べる、眠くなるから寝る、身の回りが汚れてくるから掃除をする。

分からないことがあるから勉強する、お金が必要だから働く。ただそうやって生きています。そしてありがたいことに、今は大抵のことは一人でできます。

 

でもいつか、自分のことが一人でできなくなる時が来るっていうことを考えると、どうしよう、と不安になります。その時まで何をすればいいのか、どこまで準備をすればいいのか、あれこれ考えてしまいます。

 

娘に電話して状況を話しました。すると、

「じゃあ、その別の薬をまず、飲んでみればいいじゃん。どうなるかはわからないけど、何でもやってみるのもいいことだよ」という返事でした。

うん、娘らしい言い方です。

 

不安になって、いろいろ考えてみたところで、先のことはどうしたってわからないし、その時々にできる事をするしかないということです。

 

とりあえず、1週間入院して、別の薬に切り替えて、どうなるか様子を見ることにします。それから、自分にできる事、したいこと、しなければならないことをまた考えてみようと思います。

 

きのうと同じ生活をすること、明日も同じ生活をすることは、幸せで大切なことです。

けれど、人はそれだけで満足できなくて、きのうよりも今日がもっと幸せで、豊かで、進歩している自分になりたいと思っているんじゃないでしょうか。それは、若いとか年を取っているとか関係なく、たいていの人が目標にしていることだと思います。

 

私は最近まで、年を取ることや病気になったりすることで、きのうまでできていたことができなくなるのは、不幸なことだと思っていました。

できないことができるようになることが良いことで、できる事ができなくなることは悪いこと。

けれどもしかして、何かができなくなることも、進化かもしれないと考えることもできるんじゃないかと思うようになりました。

できなくなることによって、できるようになることもあるんじゃないかと。

人間て、おもしろくて、すごいななんて思っています。

 

 

また、エプロンです。ねことうさぎです。

今週は定期の通院と、3か月に一度の検査があります。

あいかわらず元気なのですが、くしゃみやせきをすると背中やわき腹がいたいです。

何だか、自分ががんだということを認識させられているようです。

 

先週は少し、心がさみしくなっていましたが、きっと病気に負けているんだと思います。自分では負けているつもりはないのですが、買い物をしているとき、これを買ってもいつまで使えるんだろうと、無意識に思ったりしてちょっと苦笑です

 

先週はさみしくなりついでに、自分にすごく自信がなくなっていました。例えば仕事で、何回かミスしたことがすごく気になって、自分が本当は能無しの役立たずなんじゃないかと思ってしまいました。

 

そして社長の前で間違いをしてしまったのですが、「すみません、間違えてしまいました」と申告した時、「間違うのは問題ないです、だれでもあります」と言ってもらえて、少し気が楽になりました。

製造しているお弁当は何種類かあるのですが、ごはんのグラム数を勘違いしてしまうとか、おかずの入れ忘れをしてしまうというミスです。

 

その日仕事が終わって帰る車の中で、ミスしたって、まあ大したことじゃないなと思えるようになったので、弱気になっていた心も少しは回復しているんだなと思いました。

 

私には手放せない一冊の本があります。「木を植えた男」という絵本です。知っている人も多いと思うのですが、何年かに一度くらい、心がどうしようもなくなった時、取り出して読みます。とても勇気をもらえます。

 

この本は、誰か(と言っても私の娘たちですが、どっちだったか忘れたので)の誕生日にプレゼントとして買ったものですが、なぜか私の手元にあります。

そしてこの本に出合ったのは、私がシングルマザーになったころです。明るく、豊かで、安心できる家庭を作るのが目標だったのですが、離婚によって、その目標というか夢は絶対かなわないものになってしまいました。

 

この「木を植えた男」はもっと悲惨です。

子どもも妻も死んでしまって、一人ぼっちになってしまったからです。だから彼は木を植えました。命を懸けて木を植えました。

 

この物語はフィクションですが、この本を読んだとき、ああ、そうだと思いました。私もどれだけたくさんの木を植えられるか試してみたい。実際には木を植えないんだけれど、何か命を懸けてできるようなことをしてみたいと思いました。

 

りっぱな目標はできたのですが、実際には生活に追われて、毎日をこなすだけでいっぱいいっぱいでした。自分では一生懸命がんばったつもりだったのですが、今になると何もかも中途半端で、いつまでたってもスタートラインの手前にいるようです。

 

私は何者かになりたかった。

でももう、何者にもなれずに終わりそうなんて悲しいことを考えています。何もかも趣味で終わってしまいそうというか…

 

まっ、いいかあ。

何かを極めるとか、ものにするなんてことはできなかったけれど、楽しいことやワクワクするものに出会えて、のめり込むことはできたんです。あまりに、いろいろ楽しいことがあって、時間が足りませんでした。

 

登山だって、ダンスだって、ボーリングだって。

絵も裁縫も編み物も、もっと上手になりたい、もっといろんなパターンを試してみたい、もっと知りたい、などなど。

 

しかも今は手を出していないけど、生きているうちにやってみたいことはまだあるんです、手を出していないというか、若いころ一度やってて、その楽しさが忘れられず、もう一度じっくりやってみたいもの。ピアノ、英会話、家庭菜園。

ああ、どうする?

 

もう何者にもならなくていい。

とりあえず、いろんなことを楽しむ人にはなっていると思います。

できるとか、できないとか、中途半端とか、それでもいいことにします。このまま、「はい、終了ですよ」と言われるまで、楽しむことにします。