美しく食べる」というのは日本の道徳として小さいころから教育される。

 

厚みのある陶器茶わんと湯気の立つ炊き立てのご飯、漆黒のみそ汁椀のほどよい温もりが掌に伝わる。醤油と大根おろしの添えられた焼き魚が、灰色と瑠璃色の二色の陶器皿に横たわっている――丁寧に、骨を取り除き、少しずつ箸でほぐしていただく。

 

美しく食べるということは、食べ物に感謝するということだ。だから決してご飯粒を残したり、魚をむやみに崩して食べたりしてはならない。

 

「そんなことしたら、バチ当たんで」私が小さいときのおばあちゃんの口癖だ。

 

私自身、魚を箸でほぐすのが苦手で、昔はそれほど魚料理を好んで食べなかったぐらいだった。けれどカメルーンに来て、魚を食べる頻度が格段に増えた。

 

ボワソン・ブレゼ――魚の炭焼き、という意味で、カメルーンではどこでも売っている。バーの入り口、マルシェの端、道路沿いのブティック(売店)の隣に七厘を広げて、カメルーン人女性がどっしり座って炭の匂いを漂わせているのがそれだ。


緑の野菜をすりつぶして油やピーナツソースを加えた調味料を魚の身に塗りたぐり、「ピーマン」という唐辛子を添えてバナナの葉に包装してくれるのが一般的である。

  

勿論箸を使う文化はないので、魚は手で食べる

インド人がナンでカレーをすくい取って口に運ぶように、魚の身を指でうまくほぐしとって、ソースをつけてそのまま口へ。骨はスイカの種のように地面に吐き捨てるか、机の端っこに溜めて置くのが常識だ。

 

手は油でドロドロになるし骨はそこら中にまき散らすので、最初にこの光景を目にした時、「なんて汚い…‼」と衝撃を受けたが、今となってはもう当たり前の光景だ。

 

それにしても、子どもも大人も食べ物を地面に落とすことに何の抵抗もないようだし、魚を売る女将さんも、バーの店員も机や床を汚されるのがまるで当たり前であるかのように常に掃除をしている。私がされた側であればたまらないけれど――そう思いながら「なんで?」と同僚に聞いてみると、うん蓄好きなエバルさんは「よくぞ聞いてくれた」という顔でこう言うのだった。

 

こっちでは、汚す(・・)()()礼儀(・・)なんだぜ――

 

グラスが割れたり、麦酒が床にこぼれたり、ピーナッツの殻を地面に放り投げたりするのは、「祖先にもおすそわけをするためなんだ」

 

逆に、何も落とさず食べるのは祖先に何も分けずに独り占めしているということだから、余り良くないのだという。

 

日本で言う「汚い」が彼らの「美しい」とでもいうのか。そんな矛盾に満ちた言葉に耳を疑った。

 

地面に埋められたもうこの世に亡き人々が、蟻となって、ゴキブリとなって生きている――というのはアフリカの伝統を超えたエバルさんの想像なのかもしれないけれど、ともかく虫をむやみに殺したりする人ってあまりいないように思う。私も見習わねば…(お家に蟻が住んでて悩んでる今日この頃)

 

不思議なのは、日本もアフリカも「祖先」について考えているという共通点があるということだ。


日本では、手の付けていない食事を供えることが礼儀とされる(私が知っている宗派のことだけなので例外も沢山あるとは思うけど)。つまり私たちは祖先の後にいただく――けれどアフリカは、祖先と一緒にいただく、という感じである。生きていても死んでいてもensemble(一緒)なところが、アフリカの家族らしいなーと主観的に思ったりしている。


 

私たちが手を合わせて、「いただきます」と食べ物へ感謝するとき。

食べ物が捨てられているのを見て、もったいないと思うと同時に罪悪感があるのは、私たちが命をいただいていることを知っているからだ。

 

カメルーンで大きな祭りがおこなわれるとき、牛や羊、魚に鶏が絞められる。その時に彼らは、命をいただくという感覚を抱くのではないだろうか。

 

調理した肉を惜しみなく不特定多数の人々と分け合い、酒を交わしながらたわいもない話をする。


そこにはイスラームやキリスト教の文化も織り交ざっているけれど、亡き祖先や、数多い親戚たちと一緒に食事を共にする文化は、アフリカの伝統なのだそうだ。

彼らの言う「神」は、確かにイスラームやキリスト教の「神」だ。


でも拝んでいる先は大自然の恵みであって、この命であって、私たちが「いただきます」というのと、そんなに変わらないのではないか。