「既視感」を意味するデジャヴという言葉、フランス語をやっているとなるほどとなる。
Déjàは「既に」Vuは「見る」という動詞の過去分詞――これを合わせてデジャヴ、なんとまあ分かりやすい。
毎日を生きる中で――日本であってもカメルーンであっても――人は一日にある定期的なサイクルを作り出す。起きる、食べる、仕事をする、寝るという過程にリズムが生まれる。
日本にいる時は、そんなリズムの中で生きる自分が、まるで回転木馬のようにグルグル同じところを回っているだけで、つまらないと思っていた。
けれどカメルーンで一年生活をしてみて、毎日が似たり寄ったりだったとしても、少しずつすべてが違っていることに気付いた――ような気がする。
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既視感ではないが、先日が二度目の訪問であったDibombari市にあるBonabweny村への訪問は、気づき始めていた日々の違いを決定づけた。
去年の9月に前任とその村を訪問した時は、フランス語も拙く、説明されても何もわからなかった。前任のプログラムに従って、ただ動いた。ただ、景色を目に焼き付け、ただ、きらきらした瞳の子どもたちと手を繋いで歩いた。当時、人を信用するにも疑うにも早すぎたように思う。
先週ここへ来て、「ああ、確かに見た景色だ」と認識したと同時に、自分の視点が少し広がり、かつての未知に触れているのを憶えた。自分は成長している、現在進行形で。
髪の毛さわさわ、膝にのりのり photo by かずみん
前任が帰国して間もなく、私は任地で授業を数多くこなしながら、何ができるのかを模索し続けた。結局、学び続けることこそが自分の活動のスタイルであるということ、音楽や絵を通して異文化交流を図ること――くらいが私のできることであった。
チームティーチングを試み、市内での啓発プロジェクトを企画し、何度となく失敗した。何度も約束を破られて活動するのが嫌になったこともあった。けれど周りに背中を押されながら、今も失敗と改善を繰り返している。
就職するのが普通だった新卒の自分が、むりやり選んだこの道に後悔はない。むしろ選ばせてもらったことを家族に感謝したいし、選択肢があるという贅沢さを噛みしめている。そんな気持ちがあるからなのか、時に「何かを残そう」と背伸びをして空回りすることがある。「自分は無力だ」と自暴自棄になりそうになることだってある。
母はそんな私に電話で言った――「無理せんと、自分のやりたいことやって帰ってきたらいいねん。しんどかったら今すぐにでも帰ってきたってええんやで」
ありがとうお母さん、でもごめん、まだしばらくは帰らん。
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「カメルーンが好き?嫌い?」という問い。
よく帰国間際の先輩が最終報告のプレゼンで発表する。色んな答えがあるけれど、
私は全部ひっくるめて大好きと言える。
「カメルーン人だから…」という言葉は私にとって禁句である。
一般論で話をする際に必要な文句かもしれないが、同僚や隣人、生徒達や行きつけの魚売りのマダムや屋台のおじさんを「カメルーン人」としてしまうのは余りに寂しいではないか。彼らには一人一人名前があって、個性があって、家族がいて、色がある。
ポーズしすぎて顔見えへん photo by かずみん
私はカメルーンで出逢った――これから出逢うであろう――人々と、彼らの手料理と、彼らの話と、ちょっと強かなところと、変なところが几帳面なところと、正直なところと、とにかくオープンなところと、行き当たりばったりなところと、パーティーが好きなところと…数えきれないけれど、とにかく、好きなのである。
日本では味わえない感覚。日本とは全く違う生活――だから面白いし、学びがある。
視野が広がり、見る世界が大きくなればなるほど、もっとこの場所を描写できる言葉があるのだと思う。きっと私が見た場所なんでカメルーンのほんの一部に過ぎないと思わされるほど、色鮮やかで、多様なのだ。






