Bonsoir du cameroun!
ごそごそと何やら取り出す英語教師。
「これ、何か知ってる?」
植物の茎で編まれた太い紐のようなものが、
彼の手の中でぐにゃりと曲がっている。
そして私が答えるまでもなく、
その鞭で、自分より小さい誰かを叩くしぐさをする。
「こうやって、悪い生徒をしつけるんだ。」
私は職員室で作業をしていた手を止めて彼を見た。
彼の手の中にある物体が、どうしても学校の教師が持つべきものでない異様な物体に感じた。
「あなたも、叩くんですか」
「そりゃたまにね」
「先生は皆、その鞭持ち歩てるんですか?」
「さあ……でも皆持っていると思うよ」
それで子どもの尻をぱちんと叩けば、確かにふざけていた連中も黙るだろう
――その痛みを一時的に避けるために。その一時的な怒りから逃れるために。
任地の中学校でも、小さいクラスではクラスメイトの前でばちばちと鞭を奮われている生徒を見かける。悲痛を訴える生徒と頭に血が上った教師の叫び声が混ざって耳に突き刺さる。
遊ぶのが大好きで、何事も加減を知らなくて、
一つのことに集中すると周りが見えない子どもたちは無垢で単純だ。
鞭を見せれば「叩かれる」と反射的に感じ、
「黙って先生の話を聴く」ことで叩かれることを免れると考える。
私は違和感を抱かずにはいられなかった――それは「しつけ」というだろうか?
彼が得意に鞭を私に見せた時、
私の頭の中にガンガンと響く隣人の娘の叫び声を、ふと思いだした。
隣人のラリサは夫が稼ぎに出ている間
一人で二人の娘の面倒を見ているカメルーン人女性である。
鼻に金色の小さなピアス、豊饒な身体、力強い瞳、クシャっと笑った顔
――彼女は外国人である私に、丁寧にカメルーンのうん蓄や手洗い洗濯のコツやを教えてくれたり、料理を作ってくれたりと、とてもオープンマインドで明るい性格のおばちゃんである。
彼女の娘は、8歳のエメと 1歳児のエルザ。
エメは一週間の半分は学校を休んで、家事を手伝わなければならない。
「女の子は家事も手伝うのがカメルーンでは普通だよ」
と当たり前のように言う大人たちを前に、私は何も言う言葉が見つからなかった。
ごく一般的なカメルーンの家族
しかし、まだ小学生のエメが時々ラリサの怒り声と振り下ろされる鞭の音とともに泣き叫んでいるのを聞く。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
そう言って痛みに喘ぎながら、泣き叫ぶ。鞭がバチン、と低く唸る。
それが毎回何十分か続く。
母が何に怒っているのか――そんなことよりも、なぜ殴るのかが私は疑問だった。
私にとってその光景は、怒りを制御できないでいる母親が、無垢な子どもに当たっているようにしか見えなかった。
「カメルーンでは、体罰は当たり前なのさ。」
――いつだったか、同僚のリミスさんはまるで天気の話でもするかのようにこんな風に呟いた。
「大人は言うことを聞かない子どもたちに対して一番手っ取り早い方法を選んだんだ。鞭で痛みを覚えさせれば楽だから。子どもたちは仔犬みたいにしつけられる。鞭を見れば反射的に怯える仔犬みたいに」
楽だから?
「それは間違っているんだ」と分かっていても、言いたくても
一体どうすればいいのかわからなかった。
叩かれる痛みが如何なるものなのか
怒りに任せて鞭を奮い、我に返った後何を想うのか――
私には到底わからないことが、同じ敷地に居る隣人の家で起こっていた。
「なぜ、叩くの?」
私は大きな桶に洗剤を入れて、庭で洗濯をしながら恐る恐るラリサに尋ねた。
「教育よ。悪いことをしたら徹底的に怒らないとまた同じことを繰り返すの」
「でも、何がいけなかったのか言葉で説明すればいいんじゃないかな」
「私の国ではね、あなたの国の子みたいに賢い子ばかりじゃないの。だから身体で覚えさせるしか術がないのよ」
日本に「賢い子」ばかりいるようには思わないが、
確かになぜ日本では「体罰」がタブーであるという社会的概念が根付いているのだろうか?
なぜ、カメルーンでは「致し方なく」体罰を教育としているのだろうか?
エメのキラキラとした瞳の奥に潜む好奇心を
私の下手なギターに合わせて踊ってくれる可憐で無邪気な姿を
その冷たい鞭が奪ってしまうまいか、と不安になるのは私だけだろうか。
大切なのは、その瞳を見つめて
言葉を紡ぐことではないのか?
