あと一週間ほどで、授業が始まる。

学校が休みの期間も孤児院に行ったり、時々学校に来る生徒と言葉を交わしたりした。

一時的ではあったけれど、子どもと過ごす時間は、孤独を忘れることができた。

彼らは私がここに存在する意味を問うてこないからなのかもしれない。

一日三食は基本的に寮に暮らしている人々と一緒に摂る。イタリア語とフランス語の飛び交う食卓で、誰よりも理解に苦しんでいるのは私だろう。

「グローバルな食卓だ。カメルーン人、イタリア人、日本人…何大陸だ?」

冗談で誰かがそう言う。確かに、ぶっとんだ環境だと思った。

学びにはなる。フランス語になれるにはいい環境だし、注意深く聞いていると意味が分かって嬉しくなることもある。

戦争や国際問題の話から、結婚指輪やヘアスタイルの話まで会話の内容は様々だし、理解できると楽しい。理解して、それに対して何かを言う――そこを徹底的に練習してくれるフランス語の先生が現れたらなあ…なんて思ったりする。

すこしずつ、マイペースに…

そう思っているけれど、本当に私は彼らと何気なく色々な話をできるようになるのだろうか?それは一体いつのことなのだろう?後先のことを考えるとぞっとした。これから二年間、「毎日」彼らと食事をするのだ。楽しい時、疲れているとき、一人になりたいとき、泣きたいときでさえも!

 

のどかな街ムバルマヨ。この町の経済の中心であるニーナ・ギアネッティ。「イタリア人大統領のおとずれた中学校」として名の知れた学校の美しい景観。清潔感のある教室、庭、バレーコートやバスケットゴール、病院――誰もがここへ来てヨーロッパだと思うだろう。

 

Bonjourと笑いかけるのと裏腹に、頭の中でJe suis seule!――私は独りだ!――と思い込んでいる自分がいる。人は弱い。正しさなどわからない。作り上げたものは崩され、努力していることは誰にも評価されない。

 

ニーナから一歩外へ出れば、ゴミの山や濁った川の周りに立ち並ぶ家がある。きっと学校に行くことのできない子どもも沢山いるのだろう。私は何のためにここへ来たのだろう?

 

タイムカプセルを掘り返し手紙を破り捨てる残酷ないたずらをする人や、ゴミ箱を蹴り飛ばして中身を散らかす酔っ払いもいる。

環境教育が専門ではないし、大学で学んだ英語である私が、フランス語で中学生に対して環境教育の授業をする。それが「要請内容」なのだが、それ以上に深刻な問題を突き付けられているような気がしている。

 

不安と、ある種の不信感のようなもの――自分に対する嫌悪感とも似たもの――がずっと存在している。ここに居る違和感も拭えぬままだ。空を見上げ、本を読み、文章を書き、誰かに電話し、紛らわしながら日々を乗り越えるしかできない。

 

強かに生きることは難しい。

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