ここでは日本語はもはや、ことばではない。

自分の日本語で書いた日記を
声に出して読んだところで、
そこにあるはずの意味はすべて
空気を揺らした音でしかなくなってしまう。

家族の話すことばは
私の頭の中で意味の持たない音でしかない。
それはとても、とても悲しい。

私は先日ヤウンデの道路沿いを歩いていた。
道行く人だれもが私の顔をみて

ヒーホー(=你好)
chinois(=中国人)

と言う。
あるいは意味不明なことばを呟き
おちょくってくる。

Japonaiseだ、という気力も
どんどん無くなってきた。

私の顔を彼らの顔を
見たくなくても、見せたくなくても、

私はカメルーンのヤウンデにいる

その事実が重く、辛く、無意味に感じて
懐かしい日本の綺麗な街を想った。

車線のある道路、緑豊かな山々、便器のあるトイレ、蚊帳のいらない寝室、ダニのいないベッドーー懐かしんでいるものがもしかするとかなり変なのかもしれないけれど。

でも日本の清潔さはすごいと、
ここへきて強く思うのだ。


私を興味深そうに見つめる
子どもたちの瞳は私に優しい。
それはーー私がそこにいる意味を求めないから。

けれど子どもたちと触れ合い、
ささやかなコミュニケーションをはかるとき、なんだか情けなくなる。

ナイジェリア人の綺麗な英語に頼り
英語を話した瞬間に何か分かり合えたような気持ちになったとき、尖った目でカメルーン人の主婦たちが私を見ている。なんだか悔しくなる。

バイクに乗ってはならない、助手席に二人で乗ってはならないーーそれは禁じられている。そう言ってるじゃないか!なぜ私の話を聞かない?なぜへらへらしている?一歩間違えれば私は日本に帰らなきゃいけないのに!

伝わらないもどかしさは
自分に対する腹立たしさになり
理解してくれない相手に対しての
怒りに変わってしまった。

怒りの言葉は
フランス語ではなく英語であった
行った相手には、
それは怒りのこもった音でしかなかった。

私はこの2年間
いったいなぜここで
いったい誰のために
生きてゆくのだろう?



写真: 車の後ろ側が開いたまま走っているタクシーはざらだけど、野菜?果物?をここまで乗せてたタクシーははじめて。

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