ホームステイをして一週間がたった。

フランス語は相変わらず難しい。

 

語学学校風景。

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先週末、ホストマザーの知り合いの五回忌セレモニーといとこの誕生祝に行った。土日にこんな対照的なイベントに参加できることを、ママは「ラッキー」だといった。

 

そう、私は「ラッキー」である。しかし、炎天下汗だくで料理する母たち、はしりまわる子どもたちを何時間も見ていると、意識がもうろうとしてくるのであった。

 

疲れているのかもしれない。異文化に溶け込もうとするということはこういうことなのか。

想像以上の負担、想像以上の精神的疲労――やはり語学の不自由も原因の一つなのだろう。

 

靴磨きにはこだわるのに手を洗わない。皿をきれいにするのに服は汚い。質問攻めの食事時間、濁った洗濯水、ため水で歯を磨く、なかなか取り除くことのできない靴に付着した赤土、夜に無人の市場に残された山のようなゴミ、食べ物で汚れた手であちこちを触る子ども、一日中キリスト教の説教を聞き、汗だくで渋滞の道路で2時間佇み、帰ってきたら断水であることの驚愕と絶望。

 

水は大切である。きれいな水が水道からいくらでも出ることは、本当に有難いことだ。洗濯機や乾燥機が日本では当たり前だが、この9人家族は桶にためた水を少しずつ使って服を洗う。皿洗いでも水は貴重で、桶に溜めた限られた水で洗わなければならない。

 

パソコンをいじっていたら見せろというし、カメラをいじっていたらくれという。

金を見れば「金持ち」と、白い肌を見れば「美しい」と、邪気のこもった声で言う――単に私を見て尊敬しているのではなく、したたかさのこもった言い回しなのだ。

すべてのカメルーン人がそうだとは言わないが、そんな人を前にすると、とても悲しくなる。むしろ相手が言っていることを理解しない方がいいのではないかと思うこともある。

多分それは・・・少し疲れているから・・・なんだろうな。

 

しかし、この生活はとても興味深いものでもある。

停電中渡されたランプの温もりや時間を全く気にしない彼らの大らかさ、豊かな野菜と果物、美しい布の服、透明な瞳、美しい鳥と背の高い木々、鮮やか過ぎる花、空の澄んだ雨上がり、早朝鳥のさえずりとともに聞こえる子どもたちの笑い声、マルシェの喧騒とエネルギーに満ちた車線のない道路、赤土の上に立つレンガの家――

 

キタナイとキレイ、マイナスとプラス、闇と光、死と生、男と女――すべて日本で感じたそれと違う。それは対照ではなく、同じでもなく、混沌とした空間の中に溶け込んでいるのである。

目に映る醜いもの、美しいものすべてが不可思議で、理解が難しくて、優しくて、冷たくて、悲しくて、嬉しくて、怖くて、穏やかで、残酷である。