少し前の事と思ったら〇年前だった

 

東日本大震災の発生から12年というのはともかく。

 

西暦2000年が23年も前だというのがね。

よく考えると、20世紀を生きた日数より、21世紀を生きた日数のほうが長くなっている。

 

 

 

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 こんばんは、P山です。

 

 日付が変更され、3月10日。今日は私の人生でもとくに長い期間にわたって見ていてくれていた大切な友人の誕生日です。

 友人とはいえ、他者のことなのでプライバシー保護の観点からも詳しくは書きませんが。彼(男性同士ですョ~)からは毎年元旦に年賀状が届きます。彼から見ても「毎年必ず元旦に来る年賀状はP山君からのぐらいだよ」とか言われていますが(苦笑)。師走でも暇人なもんですからね。

 私と同い年、正確には学年がひとつ上の彼。私が今年の誕生日を迎えるまでは彼のほうが『一年年上』ですが、アラウンド40になって一年だとか、ましてや実際半年もないくらいの年齢差なんて関係ありませんかね。

 

 なにせ、いわゆる他人(他者のうち身内を除く者)のなかでは、私の清も濁もよく知っていてくれる、そんなひとりだと思いますね。なにせ、高校時代に知り合って以来、もう約25年、四半世紀の付き合いですから。

 かつては泣き言や愚痴をよく彼に聞いてもらっていました。今はあまり連絡さえもとりませんけど。

 実は他県住まいの彼。関東地方に住んでいる彼ですが、12年前の誕生日の翌日、2011年、卯年の3月11日に「東日本大震災」が発生したことは言うまでもなく。東北三県ほどではなくとも、震災により軽いとはいえ被害には遭い、直後からはしばらく不安な日々を送ったそうです。そんなわけで遠距離恋愛ならぬ遠距離友情の我々、友人同士とはいえど、震災の翌々年2013年に会ったのが実際の対面としては今のところ最後ですよ。もう10年か。

 

 2019年、平成31年、平成最後の年賀状には。

「君は永遠の十代(のつもり)かもしれないけれど、人生あとからのほうが大事だよ!」

とありました。今年の年賀状には「P山君は数学などに詳しいと思うので、それを活かせるように祈っています」というようなくだりが。

 

 人生、自棄になりそうなこと。多いものです。ことさらにこういうご時世であれば。

 でも陰ながら支えてくれている大事な人の存在って忘れちゃいけませんよね。

 他にも大事な人もっといますが……。そう考えると恵まれてはいるのですよね。

一年前の今日「2022年3月8日 火曜日」の個人的な手記です。

まだA型作業所で「働いていた」頃ですね。

しかし、8月31日に退職して、9月1日から無職になってからもう半年か。早い、ね。

折りに触れ、こういうふうに過去を振り返るのもいいのかもしれない。

 

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[みことば]


テサロニケ人への手紙 第一 5:16-18
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべてのことにおいて感謝しなさい。
 これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 Always be joyful. Never stop praying. Be thankful in all circumstances, for this is God's will for you who belong to Christ Jesus.


[感想など]


 この箇所は昨年2021年の一年間の、私の個人的な年間通じてのテーマ聖句として選定した箇所である。
 もちろん今年も、来年も、その次も……、念頭に置いておきたい聖句である。
 頭でっかちかもしれない私は毎日聖書を読むことは読むし、そしていいこと書いてあるなとかとは思う。しかし、それを実践できるかどうか、と言われれば「はい」とはとても言えない。
 それこそ、【ルカ 8:13〜14】にあるように岩の上にまかれたみことば、ないしは、茨の中に落ちたみことばのごとく、根がないので、しばらくは信じていても試練のとき、すなわち何か他に気を取られることがあったり、この世での生活や快楽に興味がいってしまい、『身が熟さない』ままで終わってしまうような。そういう『信仰生活』にそれていっている危険性がある。


 そこで昨年2021年の年間テーマ聖句に戻って考えて。いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝
 現在(2022年3月上旬)、世界中が2〜3年前から蔓延る新型コロナウィルス(Covid-19)の脅威のもとにあり、またロシア・ウクライナの戦争危機が迫るなど、そう穏やかではないご時世である。その中にあって、日本では、少なくともP県という地ではというと、そう差し迫った危険もなく、平穏な日々を送れてはいる。それを評価するとして、100点満点ではないかもしれないが、70点は。
 ただ、昨日は教会の兄弟姉妹のなかにコロナウィルスの感染検査で陽性認定を受けられた方が複数おられたことを聞いた。無症状ないし極軽症だとはお聞きしている。それでも感染してしまった兄弟姉妹やその家族らは不安な日々をお過ごしだと思う。
 そんなときでも、そんなときだからこそ、喜び、祈り、感謝するその3つの『プロセス』は欠かしてはならないと思う。
 さて、今の自分はどんなことを喜び、何を祈り、何に感謝しますか、なんて質問されるかもしれない。なかなか瞬間には思い浮かんでこないものではあるが、それに対して、答えつまりは対象を設定しておかないと、喜び・祈り・感謝しようと思っても空回りしてしまうのだ。
 月並みかもしれないが。毎日しごとがあること(たとえ仕事にあまり満足していなくても、働ける立場は保障されてはいる)や、毎週の礼拝や、セルグループ、LINEなどを通して教会の兄弟姉妹などと交われることは喜びである。そして、同時にそれは感謝でもある。


 では、何に対して祈ってよいのか。為政者が仕掛けた戦争のせいで、窮地に陥らされているロシアやウクライナの難民の皆様のために祈るなぞというと一見グローバルというか。しかし、『対岸の火事』の鎮火を祈っているような感は拭えない。ただ、日本にも何らかの形で飛び火してくる可能性もまた否定できないだろう。いやもうそうなってしまっているのかもしれない。あと、それこそ万が一であろうとも今我々が暮らしている日本の国土も戦場となる可能性はあるのかもしれない。我々の教会の関係者の中にもウクライナ難民が居られるということも聞いた。だが、今日本のP県にいる私、少なくとも現時点では身や財産の安全と思想の自由が保障されていることは『感謝』である。
 世界平和を祈る、なんていうといかにも大儀なイメージがあるが。まずはコロナに感染した教会の兄弟姉妹の回復や安全を祈ること。そして、ある程度自分のプライベートのことも祈る。そう、まずは自分のプライベートのことを祈ることをスタートとしてもいいのかもしれない。「衣食足りて礼節を知る」なぞというのとは違うが、自分がある程度満たされないと他者への思いやりの心というのはなかなか生まれないものであるから。

許せない行動

 

 

串揚げのソース二度漬け。

これ以上に重い罪は現代社会にはない。

 

 

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昨日たまたまコメントしたアメブロ内の某ブログの中の人から。

「『人生最後の正月』だなんて言わないで下さい」というようなメッセージを態々ダイレクトにいただいた。

 

まぁ、たしかに来年の正月まで生きているとは限らないけど、死んでいるとも限らない

それにしてもまぁ、しかし、まだ2月すらまだ終わってないんだよね。なんかそろそろ限界のような気がする。

10ヶ月後はクリスマス。逆に言えば、2ヶ月前は昨年のクリスマスだった。

 

思えば、去る年末年始(令和4年から5年にかけての年末年始)は、というかそれからつらかった。

12月中旬頃から体調不良が続いていたところで、12月23日の旧天皇誕生日というか上皇陛下の誕生日に抗原検査を受け、翌12月24日(土)クリスマスイブにコロナ陽性宣告。一週間引っ込んでろ、と連絡を受けた。外出制限が解けたのは大晦日の0時、年明け24時間前である。

それまではコロナなんて只の風邪だとか甘く見込んでいたし、ワクチンも知り合いから打たない方がいいとか流し込まれた影響でまだ1回も受けていないのだけど、本年・令和5年に明けてからの2ヶ月弱を振り返ってどうも体調・精神共に前よりエネルギーが落ちている気はする。コロナの後遺症というやつなのかもしれないけどさ。あ、いまさらワクチン受けるつもりはないです。あとのまつりだからってわけでもないけど。やっぱりワクチンの危険性が心配なので。

 

さて、今日は木曜日なんですが。天皇誕生日祝日なんですね。(無職のワイには祝日とか関係ないけど)

(先週木曜日の2月16日はそのせいか、メンクリがいつもの木曜日より倍ぐらい混んでいました)

天皇陛下、1960年(昭和35年)生まれで今年で63歳だそうです。

去る平成時代、今上天皇が「皇太子」だった時代には某匿名掲示板では人気者でしたね。上図のようなAA(アスキーアート、要は文字絵)まで作られていました。なんか懐かしいよ。あの頃が、ムショーに。