『ティラ・ミ・ス』は駅前の商店街にある小さな洋菓子店で、私が働き始めてもう8年にもなるが、定休日の他は一度たりとも休んだことはなかった。
 

ため息をひとつついて、私は紅茶の準備をしたトレイを持ち上げかけた手を止めた。

よく知っているはずの厨房を見回すと、毎日戦場のような忙しさだったそこは、定休日でもないのに嘘のように静まり返っている。

そこにあるものはみなお父さんの使っていた、使い込まれてはいるが手入れの行き届いた品ばかりだった。
銅ナベは、カスタードクリームを炊き、アップルパイのりんごを炒め、シュー生地を練るのに使われていた。お父さんは仕事終わりに必ず酢と塩とを混ぜたもので丁寧に磨いていたから、もう何年使っているのか分からないけれど、ピカピカに輝いている。
バットにはいつも、私やお母さんのカットしたフルーツが、いまや遅しとお父さんに使われるのを待っていた。今は、幾重にも重ねられたそれには何も置かれていない。
ボウルもホイッパーもゴムベラも、何種類かの包丁も、ふるいやパレットナイフも、それぞれが仕舞われるべき場所に置かれたままになっている。
そういった全てのものが無性に愛しく、そしてもうじきそれらと別れねばならないことがとても哀しかった。

 

「おーい、まだかぁー」
店の方から、英二の声がした。
「ごめんなさい、すぐ行くから」
返事をして、淹れたてのダージリンティーを載せたトレイを持ち上げた。ティーサーバとカップが4つ。お父さんとお母さん、それに私と英二で4人だ。
英二はこの3年イタリアにパティシエ修行に出かけて、つい2ヶ月ほど前に帰ってきたばかりだった。

 

『ティラ・ミ・ス』には、常連さんがちょっとした味見を楽しめるように、狭いスペースではあったがショーケースの向こうにイートイン用の小さなテーブルが置いてあった。
毎日そこへサービスの紅茶を運ぶのは楽しかった。

お父さんの作った新作への評価は大抵がべた褒めで、聞いている私は誇らしく思えたものだ。それに、何年も通いつめている常連さんですら、私をお父さんとお母さんの本当の娘だと思っており、それは私の密かな歓びだった。

 

「いつまでかかってんだよ」
英二が少し口を尖らせた。

修行の成果を見せてやろうと意気込んでいるのだ。楽しみに水を差されるとふくれるのは昔から変わらない。
「ごめん、ちょうど紅茶の缶が空になっちゃってて新しいやつ探していたのよ」
トレイを置き、ソーサーをテーブルに並べカップを置く。

 

「じゃ、自信の一作だから、心して食べるように」
私がお茶を用意する間に、英二が用意してきた二種類のケーキを切り分けていて、それぞれの皿に、スタンダードな苺のショートと本場仕込みのティラミスが載せられていく。
「やっぱり、基本は抑えとかなきゃね」
奇抜な商品はすぐに飽きられる。だから、いつでも安心して買ってもらえるスタンダードなものこそ店の顔だ――それは、お父さんの信念でもあった。

 

本当は、英二の用意したティラミスにあわせてエスプレッソも用意すべきなのだが、ここの家族は揃って紅茶党で、今では私もすっかりそれに馴染んでいた。

4つのカップにダージリンティーを注いでいく。琥珀色の液体が注がれると、淹れたてのお茶の香気がたちまちあたりに広がった。

 

「あら、少しサイズが小さいのかしら?」
お母さんが少し小首を傾げるようにして、スプーンの先で苺のショートをつついた。
「ああ、そのくらいの方が食べやすいんだよ。なあ?」
英二がそう私に同意を求めた。

店に来る女の子といろいろ話していると、お父さんの作っているケーキはちょっと大きめだと言う子が多かったのは確かだ。

(だって、ひとつ食べたらもうお腹いっぱい。別のも食べたいんだけど、ねえ)
「うん、いい生クリーム使っているな。採算は大丈夫か?」
一口味見をしたお父さんが、英二にそう聞いた。

英二が、ほっとした表情になるのが分かる。

お父さんは味に文句をつけなかった。イタリアに行く前この店で修行していた頃は、英二の作ったものをお父さんが文句をつけずに食べるなんてことは皆無だった。
「んーっ、結構するんだよね。店の賃料もあるし、今の単価じゃちょっとキツイんで、100円値上げさせてもらうつもり」
お父さんは顔を上げて英二を見たが、何も言わずにまた食べ始めた。きっと、余計な口出しはすべきじゃないと思ったのだろう。

 

お父さんはこの店と共にその職人人生を終える気でいる。
留学先で舌を噛みそうな名の賞を貰って凱旋してきた英二は、私たちに何の相談もなしに自分の店を構えると言い出した。

英二の貰った賞にはそれなりの価値があったようで、とんとん拍子にその話はすすんだ。その店の名にこのお父さんの店と同じ『ティラ・ミ・ス』という名をつけると英二が宣言したとき、きっと引退することを決めたのだと思う。
「仕方ないわよねえ、あそこ家賃も高いでしょうし」
お母さんが代わりに言った。英二の店はここからそう遠くないが、再開発によって建てられたショッピングモールの中に作られることになっている。
私はこの店で、お父さんとお母さん、それに英二と一緒に働く日を夢見ていたのに、それはあっけなく、お父さんの仕事道具同様もう過去のものになってしまった。

 

「舞子、ちゃんと喰えよな」
デザートスプーンを持つ手を止めてしばし自らの思索の中にいた私を、英二の声が呼び戻した。
「うん、美味しいよ。これなら、少しぐらい高くてもみんな納得してくれると思う」
お世辞抜きで英二の作ったケーキは美味しかった。いい素材が丁寧な仕事できっちりと引き立てられているのが分かる。もしかしたら素材の分、既にお父さんのそれを超えているかもしれない。
「いや、そうじゃなくって」
なぜか英二は顔を真っ赤にしながら怒ったように言った。
「ちゃんと全部喰えよな」
言って、喉でも渇いたかのようにカップを持ち上げてダージリンティーを口に運ぶ。

 

英二の視線が痛いほど私に刺さっている。何をそんなに苛ついているのだろう?
そのとき、スプーンが何か硬いものとぶつかった。

 

「ちょっと、何か入ってるわよ」
不注意で混ぜ込んでしまったにしては大きな異物をティラミスの中から取り出しながら、英二に文句を言う。

こんなもの商品として出したら大変だ。ふん、まだまだ英二に店なんか早かったのよ、もっとお父さんの下で修行を積んでから……
ココアパウダーとマスカルポーネを幾らか取り除いてやると、出てきたのは指輪だった。真新しいプラチナのリングに、それほど大きくは無いがダイヤが飾られていた。

 

「親父」
私がどういうことなのか理解できないでいるうちに英二が喋りだした。
「舞子を俺の嫁さんにする」
―― えっ?
「だそうだ、マイちゃんはどうだ?」
お父さんが私を見てそう尋ねた。
「嫌だったらはっきりそう言っていいのよ」
お母さんが、いつものはきはきした口調で、ただしやや心配そうにそう付け加える。

 

ティラミスから出てきた指輪を掌に載せる。
『ティラ・ミ・ス』 ―― イタリア語で「私を引き上げて」そして、「元気付けて」
英二のプロポーズだった。
「どうなんだよ」
英二が、なかなか顔を上げない私にたまりかねたように言った。

 

「バカ……」
不覚にも溢れてくる涙を止められなかった。
最近英二は店のオープンに、私は私で閉店の準備に追われて忙しくてろくに話すらしていなかった。それに、英二は日本に帰ってきてからというもの、私に対して妙に素っ気ない態度を取り続けていた。
私は、お父さんの店を閉めることは教えられていたが、英二の新しい店のスタッフには呼ばれていなかった。そのことに関しては、なぜかお父さんもお母さんもはっきりしたことを言ってはくれず、どうしようもなく寂しい思いをしていたのだ。
自分の力で歩き出した英二にはもう私は必要なくて、また一人になるんじゃないかと、底の見えない不安の中に私はいた。
「ごめんね」お母さんが立ち上がって私の肩を抱いた。
「この子がどうしても格好付けたいっていうもんだから、私たちも何も言ってあげられなくてね。不安な思いさしちゃったね」

 

幼いときに両親を亡くして、ずっと一人きりだった。
高校まで面倒をみてくれた親戚には感謝していたがついに彼らを家族だと感じることはなかった。私はいつまでたってもやっかいな居候で、両親の残した多少の蓄えと保険金だけが私たちの折り合いをつけていた。
高校生の時、ここで食べたティラミスがあまりに美味しくって、無理やりバイトに雇ってもらった。

お父さんとお母さんには本当に良くしてもらった。幼い頃のぼんやりとした記憶を除けば、私は家族の温もりの意味をここで初めて知った。
卒業すると迷うことなくお父さんの好意に甘えてここに就職した。そして、英二とは知らずの内に付き合う仲になっていた。
「俺が親父よりもっと美味いのを喰わしてやるよ」
お父さんのティラミスに惚れたのだという話をした時、怒ったように英二はそう言った。

 

「まあ、あれだ。俺の目からみても一端の職人になったと思う」
お父さんがわざとらしい咳払いをしてから喋りだした。
「これなら地道に仕事に励んでさえいれば食べていくには困らないだろう。マイちゃんはもう俺たちの娘も同然だ。だから、別にこいつの嫁になんてならなくてもいいんだが、もしよかったらそうしてくれると俺たちとしてもとても嬉しい」
私が顔を上げると、お父さんの笑顔があった。お母さんの暖かな手が私の肩にかかっていた。

 

「……ありがとう」
他に言葉を思いつかなかった。
私を家族の一員として迎え入れようと言ってくれているのだ。ただただ、嬉しくて涙が止まらなくなった。

 

 

 ※

 

 

 

「へぇー、これがそうなのぉ」
女子高生のグループが何やら喋りながら、ショーケースの内にいる私のほうをちらちらと盗み見る。
何でも彼女たちの間では、英二の作るティラミスが恋愛成就間違いなしの魔法のケーキということになっているらしい。
どこから漏れるのか、あの時のプロポーズがここのティラミスを使ったものだというのがその理由らしく、私たちはかなり恥かしい思いをしていたが、おかげで店は順調だった。

 

「あっ、おいしい~っ」
きっかけが何であれ、英二の作ったケーキを食べてそう言ってくれる人がいると、自然と私の表情は緩む。
お父さんの店はなくなってしまったけれど、『ティラ・ミ・ス』は今も確かにここにある。英二のケーキを食べて微笑んでくれる人たちがいる限り、元気になってくれる人たちがいる限り。