五月晴れの空の青と緩やかな丘陵一面を覆い尽くすネモフィラの青とで世界は青く染まっていた。

 

「ネモフィラってギリシア神話に出てくる女の人だって知ってた?」

ぽかぽかと照り付けるお日様と心地よく過ぎてゆく薫風に心洗われながら歩いていると、不意に絵梨奈がしゃべり始めた。絵梨奈は普段はおしとやかなのだが、時折妙な知識をひけらかすのが玉に瑕なところがある。

 

「そうなの?」

ギリシア神話はたいていの人よりは詳しいつもりだが残念なことにネモフィアが神話に一章を持っていたとは知らなかった。

ナルキッソスの水仙とかアドニスのアネモネとか、悲劇の末に人が花に変わると言った話は割とポピュラーだ。

 

「ネモフィラに恋した男が神様に「死んでもいいから結婚させてくれ」ってお願いしたんだって」

「……へぇ」

「でね、願いはかなったんだけど、男の人は自らの誓いの通りに死んでしまった」

五月晴れの空の下で聞かされるには、なかなかにヘビーだ。

「うわぁ……」

まあ、ギリシア神話の神様は極めて人間っぽいので、何でもかんでも慈悲をかけたりしないししっかりと対価も取る。

しかし、この気分の良い空間で、なんだってこんな話を。

 

「勝手だよね」

「……えっ」

ありゃ、話がなんだか拙い方向へ向かっているような。

 

「勝手に好きになって結婚までしちゃったのに勝手にいなくなっちゃうんだよ」

「んっ〜、神様にお願いを認めさせた根性を認めて貰う訳には」

だってほら、神様もいろんな奴からお願いされて、全部の願いを聞き届ける訳ではないから、その男も随分頑張ったんじゃないかと思うんだけどな。

「ダメダメだよ、ネモフィラ、彼が死んだあと彼を探して冥界までいったのにもう会えなかったんだよ。その後も泣き続けて、とうとう不憫に思った神様に花に変えららえちゃったんだよ。……勝手だよ」

立ち止まってこちらを見上げた絵梨奈の目には涙が浮かんでいた。

 

「……ばれちゃってる?」

世界経済で中国の次の麒麟児足りえるかも知れないインドへの赴任を会社から要請されて、散々悩んだ挙句受けるつもりだった。

インドといっても大都市圏ではなく少々治安に不安の残る地域なので、絵梨奈を連れて行くつもりは最初からなかった。

 

「麻未が教えてくれた」

秘書室の絵梨奈の同期入社の女性社員の名前だった。まだ本決まりでもないというのに、余計なことを。

 

「本当に危ないんだよ」

宗教がらみで特に女性は日本と同じようには暮らせないのだと、しばらく説得を試みる。

 

「いつも一緒にいるって言った」

絵梨奈の目からころころと涙が転がり落ちてゆく。

確かに、付き合い始めた頃にもう離さないと誓った。どうやら、説得に失敗したらしい。

 

 ※

 

「ネモフィラってね、ギリシア語で<小さな森を愛す>って意味なんだって」

ひとしきり泣いた後で、絵梨奈は赤い目でこちらを見上げた。

「森の周辺の明るい陽だまりにいっぱい生えてるんだって。結構厳しい環境でもどんどん成長しちゃうから<どこでも成功>って花言葉もあるんだって」

 

「3年はかかるぞ」

事業をそれなりに軌道に乗せるためには、どんなにうまく行っても3年、下手したら倍ほども時間がかかるだろう。

 

「何年かかってもいいよ。居なくなられるよりずっとマシ。わたし、泣いてるネモフィラより、逞しく生き抜いてくネモフィラでいたい」

温室のような日本からいきなり厳しい環境に放り込まれて、絵梨奈はきっと後悔するだろうが、どうやら置いていくのは不確かな未来の不幸を回避するよりずっとダメなことらしい。

 

「分かったよ、一緒に行ってください」

プロポーズは別の機会にするつもりだったのだが、まあ成り行きとしかいいようがない。

 

「はい」

絵梨奈がは即座にそう答えると、ぎゅっと抱き着いてきた。

 

 ※

 

ネモフィラの花言葉は。

その小さく美しい花姿から<可憐>、

アスファルトの隙間でもへっちゃらな強い生命力から<どこでも成功>、

そして、絵梨奈の披露してくれた神話から、身勝手に残された女性が花に変えられて平穏を取り戻すことで<あなたを許す>、

 

連れて行けば心配事は尽きないだろうし、きっと後悔もするのだろうけど、今目の前にしている素晴らしい花畑のように、可憐で逞しく、そして過ちを糺し許してくれるネモフィアが傍らにいてくれるのはきっと幸せな未来なのだろう。