「待てよ」
修二の声が歩き出したわたしの背に投げかけられて、その声はどことなく愉しげで、わたしは先ほどしたばかりの決意を忘れて思わず振り向いてしまった。

 

修二はわたしが振り向くのをさも当然というような余裕の表情で待ちうけていた。

ひとつ悪戯っぽい笑いをしてみせてから、何を考えているのか、背にしていた手摺を軽い身のこなしでよじ登り始めた。
先ほどまで身をもたれかからせて、わたしの別れ話を退屈そうに聞いていた丸太を模したコンクリートの手摺の上にあっという間に身体を持ち上げる。

ここは岬の突端にある展望台で、手摺のすぐ先は何もない切り立った断崖である。たしか、30メートルぐらいはあるはずだった。
 

そして、わたしが意味を理解できないでいる内に、愚かにも支えもなしに手摺の上で立ち上がってみせた。
「飛んじゃうからな」
両の手で余裕たっぷりにバランスをとりながら、随分と暮れるのが遅くなってきた春の夕映えを背にして、修二は叱られた子供がだだをこねるように口を尖らせるとそう言った。
どうやら、どうしても別れると言い張るなら、飛ぶぞと、死んでしまうぞとわたしを脅しているらしかった。

 

 

 

 

「……飛べば?」
もう、修二の思わせぶりな行動にはうんざりだった。
 

その口は、思いつきでふたりの未来や、夢や、出来もしない約束を愉しげについばんだが、それが実行されたことなどついぞなかった。

出来ることならその言葉を意味あるものにする為に、いっそこの手で突き落としてやりたいぐらいだった。
もっとも、そういうことの全てが愛おしい時期も確かにあった。気まぐれで自分勝手なその子供っぽさが、わたしだけの天使のように思えたのだ。

 

「本当だぞ」
修二の誠のないその言葉を不快に思ったのか、海からの風が急に強くなった。
いきなりやって来た風に、それまで余裕たっぷりに手摺の上でバランスをとり続けていた修二の身体がゆらっと揺れ、一瞬その顔に焦りが浮かぶ。

 

そして、春とはいえ海を渡ってきた冷たい風はまた、わたしの心もいっそう凍らせた。
「そう? だったら、口だけじゃないところを見せてみなさいよ」
もう、修二の全てを嬉々として受け容れていたあの頃の私はいない。
そう言い放つと、海風よりも遥かに冷たい視線の矢を最後に突き立ててから、わたしはきっぱりと振り向いて歩きだす。

 

「ちょっと待てって……」
当然心配して駆け寄ってくると思ったわたしに無視されて、うろたえているらしい修二の声が追いかけてきたが、今度こそ惑わされることなく歩み去ろうとした。

 

だが、その時――

 

「うわーっ!」
手摺りから降りて慌ててわたしを追いかけようとしてバランスを崩したのだろうか、それとも本当に飛んだのだろうか、絶叫に振り向いた視線の先で修二の身体は既に手摺りの外にあった。
 

ちょうど夕映えが修二を飲み込むように私の目にとびこんできてハレーションを起こすと、その背に光がまるで翼のように拡がった。

落ちていく、ほんの一瞬、時が止まり、その「翼」に支えられるように修二が空に浮かんだように見えた。

 

でも、所詮その翼はニセモノだった。
あっという間に止まった時間は動き出して、声だけを残して修二の体が手摺の向こうに消え去るのを、わたしは悲鳴をあげることも駆け寄ることも出来ずに茫然と見送った。
 

「ぅゎー」
姿が消えると、声は間延びするように小さくなり、そしてすぐに途絶えた。

 

わたしはしばらくそこに立ちつくしていた。
胸の奥底から何かがつきあげてきているのに感情へと結びつかない。驚きや、哀しみや、怒りを、先ほど見た翼が全て払っていってしまったかのようだった。

 

「……馬鹿」
気がつくとあたりはすっかりと暗くなっていた。
(ほんとに最後まで馬鹿なんだから。でも……せめて最後は、自分で飛んだことにしといてあげるよ」
わたしの天使はとっくに堕ちてしまっていたけれども、最後ぐらいは墜ちたのではなく、飛んだのだと、そう思いたかった。

 

そして、しゃがみこむとわたしは泣き始めた。だって、わたしの天使が本当にいなくなってしまったのだから。