「お待ち」
そう声をかけられたとき、私は自分がどこを歩いているのかすら分かっていなかった。

頭の中には深紅の炎がめらめらと燃え盛り、先ほど見た信じられない光景を焼き尽くそうと荒ぶり続けている。
 

「ほう、いい炎だ」
私を呼び止めたのは、どことも知れない細く暗い路地に、そこだけぼんやりと明かりを点した簡素な見台の向こう、いかにも怪しげな黒いマントとフードに身を包んだ小柄な人影だった。
 

「おいで」
マントから骨そのものではないかと思われるような痩せた右手が突き出されると、フードを頭の後ろへ追いやった。フードの下から現れたのは、白髪と皺だらけの老婆で、なぜか逆らえないままに私はその手に従った。
 

「お座り」
見台の老婆の正面に古ぼけた椅子があって、それに座ると老婆がにっと歯のかけた薄汚れた口を開けて笑いかけてきた。
 

「随分、怒っているようじゃな」
私の頭の中を見透かすように、そこだけは精気に溢れた目が鋭くこちらに向けられる。
 

「いい、喋ろうとするな、ただ怒っていればいいのじゃ」
そして、枯れた右手が伸びて来ると、私の左のこめかみの辺りに翳された。


 ※

 

木下由美は2歳年下の25歳で、昨年の春の異動で私の働く部署へと配属になった。

 

独立した秘書課の形態こそとっていないが、重役についてその秘書役を務めるのが私たちの業務だった。

ただ、セクハラ対策として一人が長く同じ人物の下にいることはなかった。

その時の仕事内容にも合わせて、ローテーションが組まれ、何人かの重役の仕事を補佐することになっている。
 

一番の新入りの世話を任されたのは当然の如くその前の新入りであった私で、秘書役としての基本から、勤務スケジュールの調整、服装・髪型にいたるささいなことまで教え込む必要があった。

幸い、由美は物分りの良い娘で、教えたことを要領よくこなす手のかからない新人だった。

 

「美河さんて、なんかいいですよね」
「そう? 若いからじゃない」
ある日のこと、仕事帰りに寄ったレストランでの食事中、ふと由美の口から出て来た名前に私はどきりとした。
美河春樹は苗字こそ違うが、社長の親族の一員で、1年前から常務取締役の席を与えられている。
 

「そうですか? 仕事も出来るし、ルックスもいい、おまけに社長の……」
そこで、由美は私の様子に気づいたようだった。
「あれぇ、もしかして」
「内緒よ……」
私は、由美に春樹と付き合っていることを打ち明けた。

 

本来、役員と秘書の色恋沙汰はNGであり、これまで誰にも話したことはなかった。ただ、かなり有能な後輩に、自分が少しばかり人生の先輩であるのだと自慢したかったのかもしれない。


 ※

 

噂が流れた。
 

春樹と私の噂だった。

春樹は役員とはいえ結婚しておらず、浮名のひとつやふたつあっても問題ないのだが、おせっかいにも課長が気を利かして、何一つ相談のないまま私は春樹付のローテーションから外された。

 

私が外れたローテーションには、由美が代わりに入った。
それ以後も、私と春樹の付き合いに変化はなかったものの、会社の中で滅多に彼の姿を見ることはなくなった。

 

何か様子が変だと思い始めたのは、半年も過ぎた頃のことだった。
週に一度は私のために時間を作ってくれていた春樹が、連絡をくれなくなった。私から連絡すると、電話には出てくれたが、会おうというと忙しいと言葉を濁した。
それでも、月に一度か二度は会って愛を交わしていたし、私に仕事以外の理由で春樹を疑う理由はなかった。

 

 ※

 

由美が綺麗になった。
もともと可愛い顔立ちの娘だったが、艶というのだろうか女の醸しだす色気が加わった。
 

「好きな人でも出来た?」
久しぶりに誘った食事の席で、何気なく聞いてみた。
「わかります?」
由美の目がほんの一瞬だけ鋭く私を突き刺すように細められ、元に戻ってから、落ち着いた声でそう答えが返ってきた。
 

「……そうなんだ」
なんとなく、それ以上のことを聞きかねた。


 ※

 

そして、今日。
 

専務の雑用で訪れた春樹のオフィスで私は理由を知った。
今日のローテーションでは由美が春樹の補佐をしていることを知っていた。だから、ノック無しでドアを開けた。
 

「ゆ……み……」
驚かそうと思って声をかけようとしたドアのすぐそばの秘書席に、由美はいなかった。
 

「美鈴……」
春樹が膝の上に座らせた由美の向こうから狼狽した声をあげた。
 

「あら、ノックは必ずしなさいと教えてくれたのは美鈴さんですよ」
由美は、春樹から下りると、剥げたリップのまま誇らしげに私を見て、平然と言った。

 

―― ドサッ
持ってきた書類が床に落ちて大きな音を立てると、私の呪縛を破った。
 

「……いつから」
春樹と由美に関する記憶が頭の中でフラッシュバックを繰り返す。

絞りだすような声でそう聞いていた。
 

「これは……」
「ローテーションが変わってすぐ、抱いてくれましたよ」
何か言いかけた春樹の声を由美の嘲りを含んだ声がさえぎった。
 

「あなた……」
あまりな由美の態度に、私は体中の血が沸立つような由美への怒りとともに、春樹へのとてつもない失望感に襲われ言葉を失う。
 

そして、その後の沈黙に耐え切れず私は逃げ出した。

 

 ※

 

会社を飛び出した私は、あてもなく街をさ迷い歩いた。

 

空が暗くなってから、何件かの馴染みのバーに入り、無理矢理アルコールを流し込んだ。
最後の店で、しつこく言い寄ってくる男がいて、その頬にありったけの力を込めた平手をお見舞いして、逃げ出した。

逃げているうちに、自分がどこを歩いているのか分からなくなり、辿りついたのがこの妖しげな占い師の見台だった。

 

「何を?」
私の質問には答えず、老婆はひたすら私に翳した手に集中しているようだった。
 

「ふう」
そんな声が漏れて、老婆が手を引っ込めた。

引っ込めた右手に、先ほどまではなかった赤い何かが握られているのが、視線の端に見えた。

 

「さて」
老婆が一旦見台の下に引っ込めた右手のほうを見た。
 

「いい出来じゃ」
そう言って、右手を持ち上げて見台の上に置いた。ごとりと音を立てて何かがその右手を離れる。
 

「えっ……」
それは真紅の刃を持つ美しい短剣だった。

日本刀のような反りはなく、その刃の部分は真っ直ぐに伸びている。いかなるものをも断ち切りそうな鋭さを感じさせる両刃が怖ろしいまでに美しく、私を魅了する。

 

「どうじゃ、欲しいか」
こちらを向いた老婆の目はいやらしく笑っていた。
 

「くれるの?」
「ああ、欲しいならな」
「幾ら?」
その時、私の心は既に決まっていた。
 

「お前の魂がそれの値段じゃ」
おかしそうに半笑いを浮かべながら老婆が言う。
 

「あなた、死神なの」
別に死神でも構わない。これをくれるのならば。
 

「さあな、怖いか?」
私の問いには答えず、そう老婆は聞いてきた。
 

「いいえ、それで構わない」
老婆を真っ直ぐ見返して、私は短剣に手を伸ばした。

柄は何で出来ているのか分からなかったが、私の手に吸い付くように収まった。持ち上げてみると、恐ろしく軽い。

まるで、重さがないようなそれを私は目の前に翳してみた。それ自体が妖しく輝くかのような刀身にうっとりと見入る。
 

「それを使ったなら、契約は為される」
ひどく遠くで老婆の声がした。
 

辺りの様子が何やらおかしいのに気づいて、私が椅子から立ち上がると同時に全ては消えて、私はよく知っている街角に立っていた。
その手に、それだけは消えなかった短剣を握り締めたまま。

 

 ※
 

春樹のマンションの部屋のキーカードを持っていた。

これも教えてもらったパスワードを入力して玄関のセキュリティーを潜り抜け、エレベータで8階へ、何一つ私を妨げるものはなかった。
 

音を立てないよう最新の注意を払いながらカードをスロットに通した。

カチャと音を立てて鍵が外れる。ただ、玄関にでもいない限りその音は聴こえないはずだった。

最新のセキュリティーを施されたマンションは、監視システムも備えてはいたが、面倒くさいといって春樹はそれを利用してはいない。リビングのモニタには今日も何も映ってはいないはずだった。

 

ヒールを脱いで、部屋に上がる。
 

すぐ隣のダイニングには誰もいなかった。

だが、予想したように、その奥のリビングから人の声が聞こえてきた。やはり、由美が来ている。
 

タクシーに乗っている間も右手の短剣は片時も離さなかった。

なぜか左手一本で不器用に財布をまさぐって、規定の料金の3倍にもなる1万円札を放るように渡して「お釣りはとっておいて」といった若い女性客をきっと運転手は不審に思ったに違いなかった。

 

由美の声を聞いた途端、私の憎悪は再び荒ぶって、それが伝わったかのように短剣が妖しく赤い燐光を放った。
 

厚いドアの向こうで声は何を言っているのかまではわからない。
左手をノブにかけて、一気にドアを開いた。

 

「きゃあっ」
由美が呆気に取られたような顔で近づく私を見て、それから右手の短剣に気づいたのか悲鳴をあげた。

ずうずうしくも、由美は本来なら私がいるべき場所に座っていた。

 

由美を目がけてそのまま走る。
 

「馬鹿、やめろ!」
私の憎しみの刃は由美の心臓までもう少しのところまで達していた。

由美は逃げようとしているようだったが、その動きはスローモーションのようにしか見えない。

しかし突然、私の視界に春樹が現れて、私の右手を押さえ込んだ。

 

春樹の手の甲を赤い線が走って、破れた血管から血が噴出した。

短剣が鋭く彼の皮膚を切り裂いたようだった。
 

「どうして」
私は出血に構わず私の手首を抑えて離さない春樹の横顔に言った。
 

「どうして、庇うのよ」
由美は怯えた小動物のように動けずにソファーで固まっている。その口が何かを言おうとパクパクと動いてはいたが、言葉にはならないようだった。

 

「馬鹿、君を人殺しになんかできるか」
春樹が私を睨むように見て、そう言った。
 

「えっ?」
由美を庇ったではないか?
 

「木下君と寝た。それは本当だ」
ふっと春樹の視線が力を失って、淡々とした口調で彼は話し始めた。
 

「なぜだかは分からない。一緒に酒を飲んで、気づいたらそうなっていた」
一瞬だけ春樹の視線が私を外れ、私の手を抑える力が弱まった。だけど、私にはもうその手を外すことが出来なかった。
 

「勝手な言い分なのはわかっている。だけど、これだけは信じてくれ。僕が愛しているのは君だ」
関係を持った後、言い寄ってくる由美を邪険にできなかったのだと韜晦の言葉を続けた、その真摯な横顔を私はきっと生涯忘れない。

 

私の右手が力を失って、カランというような音を立てて右手から離れた紅の短剣がフローリングの床に落ちた。
 

「春樹」
私はただもう嬉しくて泣いていた。春樹の胸はいつものように大きくて、私を優しく受け止めてくれた。

 

 ※


「許さない!」
耳元で声がした。

いつの間にか由美が私たちの傍らにいて、その手には短剣が握り締められていた。
 

「許さない。春樹さんは私のものよ。あんたみたいな役立たずの女になんて似合わない」
呆然と見つめる私たちの視線に由美は気づいただろうか?
 

「何よ、いつも先輩面して、私の方が仕事も出来るし、ルックスだって上なのに。それにあなたよりずっと春樹さんを愛している。あなたなんて、ただ私より先に出会っただけじゃ……」

由美が握り締めたのを見たとき短剣はすでに赤黒く変わっていたが、彼女が私に憎悪をぶつける中、その黒は刀身から柄に伸び、柄から由美の腕へと広がっていった。

 

そして、由美の右手を覆い肩まで達すると、まるで手品のように由美を呑み込んだ。

 

 ※

 

「おや、まあ」
由美の消えた方を、その場に立ち尽くしただ言葉もなく見ていた私たちの前に、私に短剣をくれた占い師の老婆が忽然と現れた。
 

「何もかんもこの娘が背負ってくれたよ」
そう言うと由美がいた場所に屈みこむと何かを拾い上げた。手にした黒い水晶玉のようなそれを愛おしげに撫でる。
 

「あんた、運がいいねえ」
そして、にぃっといやらしく笑うと、現れたときと同じくかき消すようにいなくなった。

 

 ※

 

「何……だ?」
しばらく、私たちは息をすることさえ忘れていた。

春樹が、ようやくそれだけ口にする。
 

春樹の右手の傷がなくなっていることに私は気づいた。本当に何もかもを由美が背負って逝ってくれたのだ。

 

私が春樹を傷つけて契約は発動された。

契約に従って短剣を持つものは老婆の属する世界に連れ去られたのだと、私は漠然と理解していた。

由美が私たちを呪い、短剣を拾い上げて襲い掛かろうとしなければ、あの紅の短剣が吞み込んでいたのはきっと私であったのだろう。

 

「愛してるわ」
実際のところ、何が起こったのか私には分からない。だけど、先ほど春樹に覚えた気持ち、それだけは本当のことのように思えた。

 

「僕もだ」
私を抱きしめる春樹の手にゆっくりと力が篭って、私たちはそれ以上何も考えられなくなって、お互いの温もりの中に沈みこんだ。