歴史を誇るフリギア王国の首都ゴルディオンの街を占拠すると、アレクサンドロスはその軍勢に束の間の休息を与えた。

 

「少々、拙いですね」
ヘファイスティオンが葡萄酒の杯を開けながらそう言った。部屋には友人であり遠征軍の副官たるヘファイスティオンの他には誰もいない。
「浮かれている場合か」
応えて、苦々しくアレクサンドロスが吐き捨てる。
 

前年、小アジアに上陸したアレクサンドロスの率いるギリシア遠征軍はグラニコス川の戦いで大ペルシアの繰り出してきた自軍に倍する軍勢を打ち破った。

その後、エーゲ海に臨むペルシア庇護下の諸都市を陥落させ或いは戦わず跪かせ、小アジアの内陸へと順調に進軍を続けている。
 

ところが、ここへ来てやや軍勢に緩みが生じていた。

富裕な沿岸諸都市を降したことで、遠征軍の台所は大いに潤ったが、それは一方で遠征軍の士気を削いでもいた。折角勝ったのだから、さっさとペルシアと和議を結んで、戦いの果実を得ようというのだ。
遠征は既に1年を越えて続けられており、直卒たるマケドニア軍はともかくもギリシア諸都市から集められた兵たちの中にはそういう空気が濃厚に感じられると、兵達の様子をあれこれ見て回ったヘファイスティオンはそう報告した。

 

―― だが、戦いはこれからなのだ
アレクサンドロスは掌の中の杯をきつく握り締めながら、そう心に呟いた。
先年の戦いは、確かに全ギリシアに彼の勇名を轟かせるものではあったが、それは彼の歩むべき途のほんの途上に過ぎない。
「ひとつ勝ったぐらいではだめか」
ため息をひとつアレクサンドロスがついた。父王の死後混沌を極めたマケドニアの王宮を鎮める際にも、離反したギリシア諸都市を再度跪かせる折にも、そして自らも半信半疑で挑んだ先のペルシアとの緒戦においても常に先陣を切って戦い続けてきた。
―― 俺の見る将来を分かってくれるものは少ない
ただの略奪目的でこんなところまで来ているのではなかった。世界をこの手に入れるためにここにいるというのに。

 

「ひとつ、おもしろい話を仕入れてきました」
ヘファイスティオンが杯を空にしてからそう言った。
「おもしろい話?」
こちらも杯を開けてからアレクサンドロスが尋ねる。
「この国の建国者が奉じた神殿がございまして」
ヘファイスティオンがアレクサンドロスの杯に葡萄酒を注いでやりながら言う。
「その折に戦車を捧げたのだそうです」
「戦車?」
話が見えずアレクサンドロスが先を促す。
「はい、戦車を奉じ、何でもそれを固く荒縄でくくりつけてあるとか」
「それが?」
依然として、話が見えない。
「ゴルディオスの結び目と申しまして、絶対に解けない結び目としてこのあたりでは有名であるそうで」
「だからなんだ」
自らの分身とも頼む同じ年代の副官が何を言おうとしているのか、アレクサンドロスは少々苛立ちを感じて、注がれたばかりの杯をあおった。
 

「それを解くものはアジアの王者になるだろう―― そう言われているのだそうです」

 

 ※

 

翌日、ゴルディオンの神殿にアレクサンドロスの姿はあった。鎧も冑もその身につけてはいないが、腰剣だけを佩いている。
 

「こちらがそうでございます」
案内役を命じられたフリギアの大臣が頭を下げる。
見ると、確かに古びた戦車が置かれていて、床に打付けられた大きな鉄の輪に大きな荒縄のこぶが見て取れた。
 

「なるほど」
アレクサンドロスは引き連れた遠征軍幹部とフリギアの重鎮たちから、結び目の前に一人進み出た。

年月にささくれだった荒縄はきつく幾重にも巻かれており、確かにとてもではないが結び目をほどけるようには思われない。

 

「これを解いた者がアジアの王者になるというのは本当か?」
フリギアのもの達の方を振り返りそう尋ねる。
「おそれながら、かつてこの地を訪れましたる賢者がそう予言されたとか」
フリギアの王族である一人がそう答えた。

解けるとは思っていない。

今は一時の屈辱に甘んじてはいるが、所詮ギリシアの片田舎の若造が大ペルシアにいつまでも勝ち続けられるはずがなかった。歴史を誇るフリギアでさえ、かの帝国の前には屈せざるを得なかったのだ。今のアレクサンドロスのように荒々しい武力によってではなく、その威光の前に。

 

「ならば」
アレクサンドロスの声が神殿に響いた。
「我がその王者だ」
その声は決して大きくはなかったが、息を詰めて見守っていた人々に電光を落とすかのように響いた。

 

そして――
アレクサンドロスは再び結び目を振り返ると、悠然と腰剣を抜き放ち、高く掲げると、迷いなく一気に結び目へと振り下ろした。
狙い違わずに正確に結び目を捉えたアレクサンドロスの剣は、易々とそれを両断する。
 

「あっ」
あまりに優雅なその所作に目を奪われていたフリギアの者たちが、思わず声をあげた。
「そんな、無茶苦茶な……」
先ほど、アレクサンドロスに応えたフリギア人が力なく抗議の声をあげかける。
 

「これが、我が意思だ」
剣を腰に戻しながらアレクサンドロスがその声を吹き払った。
「聞け、我が目的はペルシアに一時の勝利を得ることなどではない。我は、人の住むこの世界の全てをこの手中に収め、神々もがうらやむ楽園にする」
誰もがあっけに取られて若き征服者を見ていた。その目指すビジョンの圧倒的な大きさこそ感じられはしたが、吐き出された言葉の意味を即座に理解することが出来ない。

 

「まずはペルシアを討つ」
アレクサンドロスが一旦おさめた剣を再び抜き放ち、掲げた。
「まずはペルシアを」
ヘファイスティオンが一歩進み出てそれに和す。
「まずはペルシアを」
ようやく二人の思惑に気づいたギリシア人幹部たちが、次々と進み出てヘファイスティオンに続いた。
 

「まずはペルシアを」
何事が行われるのかと中を覗いていた兵士によってその様子は伝わって、神殿のある小さな丘の付近に野営していた全軍に熱が伝播するのにそれほど時間はかからなかった。

 

 ※
 

グラニコス川の戦いでギリシアとペルシアにその勇名を轟かせた若き英雄が、イッソスの戦いで3倍するペルシアの精鋭に対峙し再び勝利する、その幕間の出来事である