「静かなとこで見ようよ」
花火大会の会場はだだっ広い河川敷で、最初二人は混み合った打ち上げ場所の近くに何人かの友人達とひと固まりでいたのだが、突然麻里がそう言って恭介の手を取ると、恭介が驚いている間にその手を引いてどんどんと歩きだし、皆のいる元いた場所からはかなり離れた鉄橋の反対側まで来てしまった。

橋脚のせいで花火を見るにはやや見通しが悪いこともあって近くに人影は見当たらない。
「橋は少し邪魔だけど、ここならゆっくり見られるよ」
麻里はそう言って手を放すと、なれない浴衣の裾がはだけないように苦労しながら見つけたベンチに腰掛けた。夜目にも麻里の浴衣からのぞく胸元が妙に白くて、恭介の目をしばらく釘付けにする。
「早く座んなよ」
そっぽを向いたまま言葉がかかって、恭介はいつものペースを狂わされて落ち着かないまま、見惚れていた気恥ずかしさもあって慌ててその隣に腰掛けた。

 

 ※

 

麻里は幼稚園のときからの幼馴染だった。
小さい頃は黙っていればお人形さんのようなという表現がぴったり来る綺麗な顔立ちをしていた。しかし、男勝りと言うのか気に入らないことがあるとすぐに手を出す気の荒いところがあって、女の子だという意識からは程遠い存在だった。
高校生になった今では、体型こそ少年のようだったが、中性的な魅力というのだろうか、まだ大人になりきらない咲く前の蕾のような容姿で男女を問わず結構な人気がある。
もっとも、本人は美形と呼ばれるのを嫌がっている節があって、髪もショートにして化粧もほとんどせず、さすがに男相手に殴りかかるようなことはないようだったが、あいかわらず口は悪くて女を感じさせることはほとんどなかった。
そんな性格も手伝ってか、麻里には恭介を始め男友達と遊んでいる方が気楽らしく、女友達と一緒に買い物をするよりも恭介達とくだらないバカ話をしている方を好んだ。

 

ただ、今日は少し様子がおかしかった。
高校最後の夏なのに勉強ばっかりじゃつまんない――愚かにもそんなことを言いだした奴がいて、クラスの気の合う連中が集まって花火大会に繰り出すことになった。当然のように恭介は賛同し、麻里もまたいつものように仲間に入ったのだが、恭介に先に行くように言って姿を消し、珍しく他の女の子と一緒に行動して、恭介もずっと小さい頃にしか見たことのない浴衣姿で現れた。
男子たちが見慣れぬ女子達の浴衣姿に歓声をあげる。その中で恭介は、普段見慣れているはずの麻里が別人のように――それもかなりないい女のように思えて、束の間言葉を失くした。

 

「真剣に胸ないよなぁ」
傍にやってきた麻里ににらみつけるような視線を浴びて、恭介は平静を装っていつものようにちゃちゃを入れた。
ところが、いつもならとんでもない罵詈雑言が返ってくるはずが麻里は黙って下を向いてしまう。まだ夕映えの支配する時間、はっきりとはしなかったが随分と麻里の顔に赤みがさしているように思えて、恭介の方も何も言えなくなった。
そして、夜空が広がるのを待ちかねるように花火が上がり始め、一緒に来た連中が盛り上がりを見せ始める中、その輪の中から麻里は恭介を誘い出した。

 

 

 

 

 ※

 

「キスしよっか」
鮮やかな大輪で辺りを照らし出していた花火が夜空に溶けていくうちに、恭介が盗み見ていた横顔の、そこだけ僅かに紅い唇が、前を向いたまま聞こえるか聞こえないかの小さな声で言った。
突然のことに恭介はまじまじと麻里を見てしまい、それから慌てて視線を逸らした。頭の中は経験したことのないようなパニックに襲われ、どきどきと大きな音をたて始めた心臓がそれに拍車をかける。
聞こえなかったことにしよう――そうするべきだと、理性は主張していたが、一方で心音はどこまでもそのリズムを上げていく。

 

どうしたらいいのか分からないまま視線を戻すと、麻里は目を瞑っていた。長い睫毛に隠された大きな目の下、やや上向きに突き出された唇が、さっきよりも紅く恭介の目に飛び込んでくる。
「……ごめん」
何で謝るのか自分でもよく分からなかったが、恭介はそう言ってから、麻里の薄い肩に手を伸ばして僅かに抱き寄せた。
顔を近づけると、麻里の目が一瞬だけ開いて恭介の瞳を射抜き、そっとその手が恭介の背に伸びた。

 

柔らかな感触、不思議な時間、混乱しっぱなしの思考――

 

「……ずっとこうしたかった」
やがて、唇を離すと恭介の胸の中で麻里がささやいた。
「でも、やっぱりするべきじゃなかったのかな?」
麻里が恭介の胸から離れ、その言葉を遮るように今日の最後を飾る大きな花火が連続で夜空を彩って、そして束の間の生命を終えて元の夜空にその座を譲った。

 

「私、恭介とはずっと友達でいたいよ」
麻里が立ち上がって、恭介を見ずに言う。
「……でも、思っちゃったんだ」
麻里が振り向いた。
ちょうど鉄橋の上を電車が走り去って、麻里の身体をきれぎれの光が通り過ぎた。その頬のあたりが光るのを恭介は見たように思った。
「キスしたい、恭介とそんな風になりたいって。おかしいよね、こんなの。私らしくないよね、こんなの」
「麻里……」
「でも、思っちゃったんだ……ごめんね」
そういうと、麻里は恭介が何かをするより前に一人で歩き出してしまった。だんだんと闇に溶け込んでいくその姿を恭介は目でずっと追っていたが、どうすればいいのか分からずただ見送った。
なぜ、急にこんなことをする気になったのか? なぜ、今夜なのか? そんな疑問を抱えつつ、どうやら自分は麻里のことが好きらしいと結論を出した頃には、すっかりと夜が更け日付が変っていた。


 ※

 

何となく連絡を取りずらくて、またそれなりに受験生としての夏を過ごしているうちに、顔を合わせることなくあっという間に夏休みは終わった。
麻里が転校したことを知ったのは、2学期が始まってからのことだった。

 

 ごめん。
 どうしても勇気が出なくって、転校のこと言いだせませんでした。
 お祖父ちゃんが身体を壊して、お父さんが後を継ぐことになったの。親は残ってこっちで受験してもいいって言ってくれているんだけど、お祖父ちゃんも心配だし、やはり私も一緒についていくことにしました。
 この前の花火大会の夜の気持ちは本当。
 でもね、あんなことをしたら友達じゃなくなるんじゃないかと思うと今でもとても怖い。自分でも馬鹿みたいだと思うんだけど、それが何より怖いの。
 だから、
 だから逃げちゃうのかもしれません。
 恭介のことが好きです。
 来年、あの場所で待っています。もし、恭介が来てくれたら自分の気持ちに素直になれるかな?
 恭介は一番大切な友達です。今までも、これからも。
 ごめんね。


 ※

 

あれから1年がたった。
恭介は一応の志望校に合格し、少し離れた街で一人暮らしを始めた。思えば、受験の慌しさが過ぎると新しい生活が始まって、あっという間の1年だった。
麻里が転校したのを知った日、机の中に麻里からの手紙を見つけた。何度も連絡しようと思い、手紙を読み返してその気持ちを押さえ込んだ。
1年の時間を麻里は必要だと考えた。
あの時麻里は、あの止めようもないときめきに身を任せ、あの最後の花火のように燃え上がり、そして何もなかったように二人の関係が消えてしまうのが怖かったのだろうと恭介は理解していた。そして、あの時の自分はその答えを持っていなかったことも。
会えない時間、どんどんと麻里の存在が大きくなっていった。だから、今ならはっきりと分かる――

 

「……恭介」
ためらいがちな声が、あの時のベンチに座っていた恭介の後ろからかかった。
ゆっくりと立ち上がって振り返ると、髪を長く伸ばしてすっかり大人びた恭介の知らないとびきりの美人がそこにいて、不安げな表情でこちらを見ていた。
「わたし……」
もしかしたら自分は肝心な場面でまた怖気づいてしまうのではないかと思っていた。が、目の前に突然現れた美人を見ても心は穏やかなままだった。
どんなに変ろうが麻里は麻里だった。一番近くにいて、一番良く知っていて、一番好きな人、だから一緒にいたい――いつまでも。
 

「待たせた」
そう言って、何か言いかけた麻里の言葉を遮って恭介はその華奢な体を抱きしめた