深更、蒼色のアウディが出るという。

場所はM市とI市という小さな二つの地方都市を結ぶ海沿いの国道。

深夜ともなれば対向車を見かけることも稀な、カーヴの多い海と山とに挟まれた道路を走っていると、いつの間にか近寄ってきていたヘッドライトがあっという間に大きくなる。

生意気な、抜かさせるかよと、こちらもアクセルを踏んで抗おうとするのだが、闇の中から現れた蒼色のアウディは、冗談のようなずば抜けた加速と超絶テクニックで瞬く間に横につくと並走を始める。

すると、蒼色のアウディの左側の運転席から、ハンドルを握ったショートカットの人形のように整った顔立ちの女が何かを確認するようにこちらを凝視してくるのだそうだ。

彼女はすぐに興味を失ったかのように視線を切ると、必死に並走しているこちらをあざ笑うかのように更に速度を上げあっさりと抜き去ってゆく。

追いかけようとするが、そのテールランプはあっという間に幾つものカーブの先へ、現れた時同様闇の中へと消えてしまう。

そんな噂がいつの間にやら二つの地方都市の間ですっかり広まっていた。

 ※

「くだらない」
来栖省吾は飲んでいた瓶のバドワイザーを振ると、久しぶりの故郷の街で、やはり久しぶりに集まったかつての仲間達から聞かされた噂を一笑に付した。
「だけどさぁ、あの時の……」
やはり飲んでいたバドワイザーを置くと、二宮純一が少し声を落として言いかける。
「だから、くだらねぇ噂話だろ。どうせ、あの<事故>をニュースで見た誰かが、作ったヨタ話だろうが」
皆まで言わせずに、省吾が純一を遮る。少し怒った口調だった。

「そう……だよな……」
いつものように省吾の剣幕に恐れをなした純一が口篭った。悪さをする仲間ではあったが、純一は決して省吾には逆らえない、そういう関係だった。
「そうだよ、つまんねぇこと気にしてんじゃねぇ!」
そう言うと、省吾はバドワイザーを一気に飲み干した。

「よぉ、お前等も行く?」
飲んでいた連中の内、気心の知れたひとりが、ふたりをそう誘った。
これから、彼等の地元であるI市よりもほんの少しだけ賑やかなM市へ行って、女の子と遊ぶのだという。

「いや、俺達は……」
言いかけた純一を省吾が目だけで制した。
「可愛い子いるんだろうな?」
当然といった風に省吾は誘いに乗った。

 ※

「ほんとに、行くのか?」
省吾の運転する車の助手席で、純一がおそるおそる尋ねる。
M市へ行くためには当然噂になっている件の道を通ることになるのだが、純一は省吾の怒気と同じくらいその噂が怖かった。

「当たり前だ、あんなヨタ話でビビるかよ」
省吾が吐き捨てるように答えた。

「でも、あの女……うわっ、」
珍しく純一が口応えしかけたが、省吾は目一杯アクセルを踏み込んだ。
タコメーターの針があっという間にレッドゾーンへと振り切れて、急加速して先行する仲間達を瞬く間に置き去りにすると、ふたりを乗せた車は海沿いの国道へと進入した。

「来るなら来てみやがれ」
目の前に現れる大小のカーヴを、省吾は限界ぎりぎりまでブレーキを踏むのを我慢し、タイヤを軋ませながら攻めていく。
しばらく忘れていた高揚感が戻ってきて、純一ほどではなかったにせよ、一瞬感じてしまった怯えにも似た感情を吹き飛ばしていくのが何より爽快だった。

 ※

最初に気づいたのは純一の方だった。

「どうした?」
いい気分で新しい煙草に火を点けかけて、助手席の純一が固まっているのに省吾は気づいた。
純一は視線をバックミラーに向けたまま、省吾の問いかけに答えようともしない。

「何だってんだ……」
そして、自分もバックミラーを覗き込み、省吾もそれに気づく。

「近づいてきてる……」
純一が怯えた声をあげた。
カーブの続くその道で、ちらちらと現われては消える光があった。ヘッドライトの光に間違いない。

少し余裕が出てスピードを落としていたから、置き去りにした仲間達が追いついてきただけだろうと省吾は思おうとしたが、見ているとヘッドライトの光はおよそありえないような異様な速さで近づいて来る。

(ふざけんな! あんなヨタ話が本当にあってたまるか!)
省吾は、煙草を灰皿に押し付け放り込み、アクセルを吹かした。

 ※

「だめだ、速ぇ……」
体を捻って後ろを見ている純一が絶望的な言葉を漏らす。

(嘘だろう……)
省吾にはバックミラーを覗き込んでいるような余裕はなかった。ただ、目の前に迫り来るカーヴを限界ギリギリのスピードで曲がるだけで精一杯だった。

(くそぉ、この道で俺以上の腕の持ち主なんてありえねぇ!)
久しぶりとはいえ、慣れ親しんだルートである。省吾には、今でも誰よりも早く走れるという自負があった。

「うわぁ!」
(ちっ……)
省吾の舌打ちと、純一の悲鳴が被さる。
直ぐ後ろまで接近してきて、パッシングを浴びせてきた後続車は、短い直線で省吾の車に悠々と並びかけた。

「アウディだ……、本当だったんだ……」
純一が怯えた声をあげる。並んできたのは、噂通り、蒼色のアウディだった。

左側の運転席から、ハンドルを握る影がこちらを向いた。

「うわぁっ!」
「ざけんな!」
純一の悲鳴と、省吾のやや気圧されて迫力を欠く怒声が同時にあがる。
こちらを見ているのは、ショートカットの人形のように整った顔立ちの若い女だった。その視線が、はっきりとふたりを捉え、その唇が開いて何か言葉を吐き出した。

―― 見つけた!
声は聞こえなかったが、ふたりには、はっきりとそう言ったのが分かった。
そして、女の正体も。

「そんなことがある訳ねぇ!」
背筋を冷たいものが這いずりまわる。
それを無視して、省吾が吠え、アクセルを踏み込んだ。

――キィキィーィー
限界を越える負荷をかけられたタイヤが嫌な音をたてながら軋み、省吾が必死のステアリング捌きで何とかコーナーを曲がりきる。

「だめだ、離れねぇ」
純一が泣き声で余計な報告する。

「ふざけるなぁ!」
純一にいわれるまでも無く、省吾にもそれは分かっていた。一旦後ろへ下がったアウディは、余裕綽々に直ぐ後ろにつけ、またパッシングを浴びせてきた。

こんなに必死になったことはなかった。
文字通り死ぬ気でコーナーに突っ込み、これまでの経験とドライビングセンスの限りを尽くして攻略する。
いままでの走りの中で文句なしに最高の走りだった。

「くそっ! くそっ!」
それなのに、直ぐ後ろにつけているヘッドライトはまるで離れようとしない。必死でカーブを抜け出た後、浴びせられるパッシングが屈辱的だった。

「だめだ、止まろう、謝ろう……」
先ほどから、純一はうわ言のようにそう呟いていた。どちらも気づかなかったが、その股間は失禁で濡れている。

(ちきしょう、なんでだ、なんであんな車がぶっちぎれねぇ……)
限界が近づいていた。もう何回も耐えられそうもなかった。

「だめだっ! この先は!」
突然、純一が大声をあげた。
それが合図だったかのように、アウディが再び並びかけ、そして運転席の女がこちらを見た。

その整った顔立ちがぼやけだし、ふやけたように膨れ、濡れた髪はぴったりと膨れた皮膚に貼りついてゆく。

純一はともかく省吾に横を見る余裕などあるはずもないのに、はっきりと見えた。

そして、見ているだけで匂ってきそうな腐乱した肉がぐじゅぐじゅと皮膚を破って――

省吾と純一に具現化した恐怖を見せつけた後、アウディが再び下がっていく。その車体が、いつの間にか暗い赤に変わっているのを、省吾は確かに見た。

パッシングが連続で浴びせられる。
もう、止まれない。無理でも何でも、逃げ切る以外に道はなかった。他にどうしようもなく、省吾は、力一杯アクセルを踏み込んだ。

 ※

「ありゃ、こりゃいかんな……」
現場に到着して現場検証を始めた警察官のひとりが呟いた。
カーヴを曲がりきれずに歩道を越えた事故車は、ガードレールに突っ込み、正面からの打撃には脆いそれを突き破って、遥か下方で断崖に荒波を打ちつけている暗い海へと落下したのは明白だった。

「何がですか?」
ここを管轄する警察署に着任して日の浅い同僚が尋ねる。

「ここなぁ、潮の流れがやたらと早いわ、直ぐ先で急に深くなるわ、揚がらんのだわ。車も、遺体も」
何年か前にも、同じようにここから海に落ちた車があって、やはり車両も遺体も揚がらなかったことを古参の警察官は思い出していた。

今回も、捜索は難航しそうだった。

古参の警察官も知らないことだが、前回の事故で現場に残されたタイヤ痕のうちのひとつが、今回も残されていた。
それは、遊び半分に若い女の子の乗る車をテイルトゥーノーズでいたぶった挙句に事故らせてしまったふたり組みの乗った車のものだったが、現場にはいつ付けられたのか分からない多数のタイヤ痕があって、当時そこで何があったのかを知る手がかりにはならなかった。

「揚がらないって、ずっと水の中ですか……、ぞっとしないなぁ……」
新参の警察官は暗い海面を覗き込み、ひやりと冷たいものを感じて思わず体を震わせた。