不思議なもので、幾つになっても春の訪れは心騒がせる。

強弱を繰り返す気紛れな風に、降りしきった雨の後の暖かさに、目に鮮やかな花の彩りに、この冬もまた終わり新たな春が来るのだと、心騒ぐ。

何かが変わる予定がある訳ではなく、何かを変える心積もりもなく、それでもなぜだか心騒がせる。

 

「こんにちわ」

不意に声をかけられた。

春そのもののように華やいだ聞き覚えのない女性の声だった。

庭で鉢植のチューリップの世話をしていた手を休めて、思わず声のした方へと顔をあげた。

20代半ばだろうか、先ほどの声ほどではないが華やいだ雰囲気のある面識のない綺麗な女性が我が家の低い植え込みの向こうに立っていて、こちらを覗きこんで照れたような笑みを浮かべていた。

 

「すみません、いきなり」

視線が遭うと彼女は照れたような笑みを消し、低い植え込みの向こう側からぺこりと頭を下げた。

「チューリップがあんまり綺麗に咲いているので拝見してたら、なんか嬉しくなっちゃって」

気がついたら、つい声をかけてしまったのだと言う。

道端で綺麗な花を見かけると場所柄も相手の都合も考えずよく声をかけてしまうのだと、彼女は再び照れたような笑みを浮かべるとそう言った。

 

 

「珍しい色ですね」

こちらが非難の言葉も発せず表情も強張らせなかったのに安心したのか、チューリップを見ながら彼女が尋ねてきた。

「昔、青が発色しないか試していた時期があってね」

いや、素人の土いじりのレベルなんだがと付け加える。

「チューリップに青なんてあるんですか? 緑は聞いたことあるけど、青いのは知らないなぁ」

花は好きなのだろうが、チューリップにはそれ程詳しくないのか彼女は首を傾けた。ずっと品種改良が試みられているが花全体が青いチューリップはまだ誰もそれに成功していないのだと教えてやる。

 

「へぇ~、じゃこれは紫なんですか?」

「そうですよ、残念ながら青ではなく紫」

薄紫の花は光の具合によっては青に見えなくもない。

彼女が撮らせてもらってもいいですかとスマホを掲げてみせたので、花を撮るのは構わないが家が入り込むのは勘弁して欲しいと答える。

「ありがとう」

嬉しそうな声がして、何回か彼女はチューリップを撮影したようだった。

 

「また、見に来ちゃってもいいですか?」

そう彼女が尋ねてきたので、「こんな庭でよければ、いつでもいらっしゃい」と答える。

(今度があるなら、お茶ぐらい出せるようにしておこうか)

そんなことを思う。

彼女は、また偶々通りかかるかも知れませんと言っただけなのだろうし、自分自身も何かしらの期待が生じたわけではないけれど、そんなことを思う。

 

(ほんとうに出来るの? 誰も成功した人いないんでしょ)

呆れたような君の声を背にチューリップの世話にいそしんでいたのはいつのことだったのだろうか?

随分と昔のことのようでもあり、去年のことのことのようでもあり――

 

「ほんとに来ちゃいますよ、わたしあつかましいから」

植え込みの向こうから、再び春そのもののような気持ちのいい華やいだ声がして、遠く懐かしい記憶に割り込んだ。

 

春は心騒がせる。

 

(また、やってみるのもいいか)

とうに諦めてしまった青いチューリップにまた挑んでみてもいいな、と思った。

きっと失敗するだろうチャレンジが、なんだかひどく楽しいもののように思えるから不思議だった。