勇者と聖女は異世界から帰還した。
異世界に召喚されたのは、ごく普通の日本の高校生だった。
地球の時間で今から三日前、放課後の教室に残っていた武者 勇(むしゃ いさむ)と早乙女 聖子(さおとめ せいこ)の目の前が突然光に包まれ、気がつくと彼らは剣と魔法の世界「アルトリア」にいた。
彼らはアルトリアで苛烈な運命を歩んだ。勇は【勇者】として、聖子は【聖女】として、過酷な訓練と幾多の戦いを経て魔王を討伐し、アルトリアに平和をもたらした。
そして、彼らは無事に地球に帰還した。
異世界で三年。地球ではたった三日。この間、勇と聖子の家族や友人は大変心配していた。勇の家では、父と母、妹が泣き崩れて勇を抱きしめた。聖子の両親も憔悴しきった顔で彼女を迎えた。
二人の外見は特に変わったところは見られなかったが、二人の顔つきは、異世界に行く前とは比べ物にならないほど自信に満ち溢れていた。彼らは異世界を救った英雄であり、その経験は、彼らの存在そのものを別次元へと引き上げているように見えた。
数日の休養を経て、二人は学校に復帰した。友人に囲まれ、好奇心と心配の入り混じった質問攻めにあいながらも、二人は平穏な日常に再び身を置いた。
だが、その日常は長く続かなかった。
異世界で勇は魔法が使えた。剣術、体術のスキルも、筋力や身体能力を極限まで強化する恩恵も持っていた。思考速度は常人の十倍。あらゆる情報を瞬時に処理し、最善の手を打ち続けていた。
しかし、地球では、魔法は使えない。スキルも恩恵も、全てが消失していた。
初めてそれに気づいたのは体育の授業中のことだった。勇は異世界での感覚でバスケットボールのゴールを決めようと跳躍した。異世界の彼ならその場で数十メートルの跳躍も可能だった。だが地球の彼は、ただの人並みのジャンプしか出来ず、ボールはリングにすら届かなかった。その瞬間、勇の体から力が抜けた。剣術、体術スキルの恩恵も無ければ、筋力強化も出来ない。
異世界で膨大な知識を詰め込むことが出来た記憶力や思考速度も、元の「人並み以下」に戻っていた。
異世界に行く前、勇は勉強も運動も得意ではない、ごく普通の高校生だった。体力や知力が低下したわけではない。元の状態に戻っただけである。
だが、問題はそこではない。
彼の心の中には、かつて「最強の勇者」であった自分が鮮明に残っているのだ。一瞬で状況を把握し、強大な魔物を一刀のもとに屠り、戦術を瞬時に組み立てて仲間を導いた、あの「勇」が。
今の自分は、少し走れば息が上がり、英語の単語一つ覚えるのにも苦労する平凡な高校生。机に向かっても、集中力は続かない。異世界なら数秒で解けた問題も、全く手が出ない。
「なんで……なんで動かないんだ!」
誰もいない自室で、勇は壁を殴りつけた。人並み以下の筋力では壁が少し凹む程度。異世界での彼なら城壁すら粉砕できただろう。
彼は、かつて体験した「最高の自分」から引きずり降ろされてしまったのだ。
どうしても異世界での動きや思考力を思い出してしまう。その残像と今の非力な現実とのギャップに、勇は激しく苦しみ、心も行動も荒れ始めた。苛立ちを友人にぶつけ、授業中は窓の外を眺めてばかりいる。そして、ついには無気力にふさぎ込むようになった。
一方、聖子もまた、決定的な喪失感を味わっていた。
彼女の力は、人々を癒す治癒魔法だった。いかなる傷も、死の間際の命ですら、彼女の手に触れれば回復した。その力は、アルトリアの民に希望を与え続けた。
学校で、体育の授業中に友達の一人が足首を捻挫した。友達の悲鳴を聞いた瞬間、聖子の身体は条件反射で動いた。膝をつき、迷いなく手を差し伸べる。
「大丈夫、私が治すから。少し我慢してね」
アルトリアで何百回と繰り返した力の使い方。魔力を集中し、癒しの光を溢れさせる。
しかし、何も起こらなかった。友人の捻挫した足首は、ただ腫れ上がったままだ。聖子の手から、光も熱も、何一つ発せられなかった。
「え……?」
聖子の顔から血の気が引いた。異世界では、彼女は全能の治癒者だった。誰かの痛みを見て、治せないという状況は存在しなかった。
「聖子、どうしたの? 早く保健室に連れてってあげないと」
友人に言われて、ハッとする。彼女はただの高校生だ。
結局、捻挫した友人は保健室でアイシングを施され、その後、病院へ運ばれていった。
その日以来、聖子は自分の無力さを突きつけられることになった。困っている人がいるのに、何もしてあげられない。その事実は、彼女の心を深く抉った。勇とは違う形で、聖子もまた「最高の自分」を失っていた。
しかし、聖子はふさぎ込まなかった。彼女の心の中にはアルトリアの人々を救った時の使命感が燃え続けていた。魔法が使えないなら別の方法で人々を助ければいい。
彼女は、医師か看護師になることを決意した。聖子はすぐに猛勉強を始めた。かつてアルトリアで叩き込まれた膨大な治癒知識は、魔法とともに消えていたが、彼女の心の中には「人を救う」という強い意志だけが残されていた。今の彼女の知力は平凡でも、かつて世界を救った聖女の意志力は並大抵のものではなかった。
机に向かう聖子の横顔は、以前の自信に満ちたそれとは違っていたが、その眼差しには、失われた力に代わる新たな目標を見据えた、静かで強い光が宿っていた。
一方、勇は相変わらず自室に引きこもり、荒れ果てた心を鎮めることが出来ずにいた。彼はまだ、かつての「勇者」の影から抜け出せずにいたのだ。
勇と聖子。
二人は異世界という特別な経験を共有しながらも、帰還後の世界で全く異なる道を選び始めていた。
一人は喪失感に囚われ、一人は新たな希望を見出して。
異世界に召喚されたのは、ごく普通の日本の高校生だった。
地球の時間で今から三日前、放課後の教室に残っていた武者 勇(むしゃ いさむ)と早乙女 聖子(さおとめ せいこ)の目の前が突然光に包まれ、気がつくと彼らは剣と魔法の世界「アルトリア」にいた。
彼らはアルトリアで苛烈な運命を歩んだ。勇は【勇者】として、聖子は【聖女】として、過酷な訓練と幾多の戦いを経て魔王を討伐し、アルトリアに平和をもたらした。
そして、彼らは無事に地球に帰還した。
異世界で三年。地球ではたった三日。この間、勇と聖子の家族や友人は大変心配していた。勇の家では、父と母、妹が泣き崩れて勇を抱きしめた。聖子の両親も憔悴しきった顔で彼女を迎えた。
二人の外見は特に変わったところは見られなかったが、二人の顔つきは、異世界に行く前とは比べ物にならないほど自信に満ち溢れていた。彼らは異世界を救った英雄であり、その経験は、彼らの存在そのものを別次元へと引き上げているように見えた。
数日の休養を経て、二人は学校に復帰した。友人に囲まれ、好奇心と心配の入り混じった質問攻めにあいながらも、二人は平穏な日常に再び身を置いた。
だが、その日常は長く続かなかった。
異世界で勇は魔法が使えた。剣術、体術のスキルも、筋力や身体能力を極限まで強化する恩恵も持っていた。思考速度は常人の十倍。あらゆる情報を瞬時に処理し、最善の手を打ち続けていた。
しかし、地球では、魔法は使えない。スキルも恩恵も、全てが消失していた。
初めてそれに気づいたのは体育の授業中のことだった。勇は異世界での感覚でバスケットボールのゴールを決めようと跳躍した。異世界の彼ならその場で数十メートルの跳躍も可能だった。だが地球の彼は、ただの人並みのジャンプしか出来ず、ボールはリングにすら届かなかった。その瞬間、勇の体から力が抜けた。剣術、体術スキルの恩恵も無ければ、筋力強化も出来ない。
異世界で膨大な知識を詰め込むことが出来た記憶力や思考速度も、元の「人並み以下」に戻っていた。
異世界に行く前、勇は勉強も運動も得意ではない、ごく普通の高校生だった。体力や知力が低下したわけではない。元の状態に戻っただけである。
だが、問題はそこではない。
彼の心の中には、かつて「最強の勇者」であった自分が鮮明に残っているのだ。一瞬で状況を把握し、強大な魔物を一刀のもとに屠り、戦術を瞬時に組み立てて仲間を導いた、あの「勇」が。
今の自分は、少し走れば息が上がり、英語の単語一つ覚えるのにも苦労する平凡な高校生。机に向かっても、集中力は続かない。異世界なら数秒で解けた問題も、全く手が出ない。
「なんで……なんで動かないんだ!」
誰もいない自室で、勇は壁を殴りつけた。人並み以下の筋力では壁が少し凹む程度。異世界での彼なら城壁すら粉砕できただろう。
彼は、かつて体験した「最高の自分」から引きずり降ろされてしまったのだ。
どうしても異世界での動きや思考力を思い出してしまう。その残像と今の非力な現実とのギャップに、勇は激しく苦しみ、心も行動も荒れ始めた。苛立ちを友人にぶつけ、授業中は窓の外を眺めてばかりいる。そして、ついには無気力にふさぎ込むようになった。
一方、聖子もまた、決定的な喪失感を味わっていた。
彼女の力は、人々を癒す治癒魔法だった。いかなる傷も、死の間際の命ですら、彼女の手に触れれば回復した。その力は、アルトリアの民に希望を与え続けた。
学校で、体育の授業中に友達の一人が足首を捻挫した。友達の悲鳴を聞いた瞬間、聖子の身体は条件反射で動いた。膝をつき、迷いなく手を差し伸べる。
「大丈夫、私が治すから。少し我慢してね」
アルトリアで何百回と繰り返した力の使い方。魔力を集中し、癒しの光を溢れさせる。
しかし、何も起こらなかった。友人の捻挫した足首は、ただ腫れ上がったままだ。聖子の手から、光も熱も、何一つ発せられなかった。
「え……?」
聖子の顔から血の気が引いた。異世界では、彼女は全能の治癒者だった。誰かの痛みを見て、治せないという状況は存在しなかった。
「聖子、どうしたの? 早く保健室に連れてってあげないと」
友人に言われて、ハッとする。彼女はただの高校生だ。
結局、捻挫した友人は保健室でアイシングを施され、その後、病院へ運ばれていった。
その日以来、聖子は自分の無力さを突きつけられることになった。困っている人がいるのに、何もしてあげられない。その事実は、彼女の心を深く抉った。勇とは違う形で、聖子もまた「最高の自分」を失っていた。
しかし、聖子はふさぎ込まなかった。彼女の心の中にはアルトリアの人々を救った時の使命感が燃え続けていた。魔法が使えないなら別の方法で人々を助ければいい。
彼女は、医師か看護師になることを決意した。聖子はすぐに猛勉強を始めた。かつてアルトリアで叩き込まれた膨大な治癒知識は、魔法とともに消えていたが、彼女の心の中には「人を救う」という強い意志だけが残されていた。今の彼女の知力は平凡でも、かつて世界を救った聖女の意志力は並大抵のものではなかった。
机に向かう聖子の横顔は、以前の自信に満ちたそれとは違っていたが、その眼差しには、失われた力に代わる新たな目標を見据えた、静かで強い光が宿っていた。
一方、勇は相変わらず自室に引きこもり、荒れ果てた心を鎮めることが出来ずにいた。彼はまだ、かつての「勇者」の影から抜け出せずにいたのだ。
勇と聖子。
二人は異世界という特別な経験を共有しながらも、帰還後の世界で全く異なる道を選び始めていた。
一人は喪失感に囚われ、一人は新たな希望を見出して。