俺が、目の前で死んでいる。
 県境近くの廃キャンプ場、朽《く》ちかけたバンガローの裏。そこに、俺の死体が横たわっている。
「もしかして俺は、もう死んでいるのか?」
 あまりの奇妙さに、背筋に冷たいものが走った。
 俺はすでに自殺を遂げていて、幽霊になって自分の死体を見ているのではないか。あまりの現実味のなさに、そんな怪談じみた思考が頭をよぎる。
 確かめるように、恐る恐る手を伸ばした。
「おい」
 震える手で、死体の肩に触れてみる。
「さわれる」
 俺の手は、死体をすり抜けることなく、しっかりと手ごたえを感じていた。
「俺は、幽霊じゃ、ないのか」
 触れる。感触がある。ということは、俺は幽霊ではない。
 まだ死んでいない。俺は生きている。
 どっと冷や汗が噴き出ると同時に、妙な安心感が胸の奥に広がった。
 死にに来た奴が自分自身の生存を確認して安心するなんて、妙な話だ。
 だが、安心している場合ではない。この状況は何だ?
 俺はまじまじと、足元の死体を観察し始めた。
 落ち着いて観察すれば、男の顔は俺と瓜《うり》二つだった。
 背格好はおろか、輪郭《りんかく》、髪型、そして何よりその顔立ちが、自分の顔写真を見るかのように俺にそっくりだった。
 だが、決定的な違いがある。男の身なりは俺とは対照的だった。
 俺の服は数日着たきりの薄汚れたヨレヨレのTシャツと、泥を吸ったジーンズだ。
 しかし、この死んでいる男が身につけているのは、一目で仕立てが良いとわかる滑らかな生地のジャケットだった。手首には、鈍い光を放つそこそこ値の張りそうな腕時計がはめられている。
「もしかしてこいつ、金持ちなのか?」
 少なくとも、借金に追われて首を吊ろうとしている俺に比べれば、遥かに上等な暮らしをしていた人間に見えた。

  ――

 振り返れば、これまでの俺、太田翔平《おおた しょうへい》の人生は、絵に描いたような不幸の連続だった。
 大学を中退し、職を転々とし、最後に手を染めた事業で見事に騙されて巨額の借金を背負った。
 友人たちからは見捨てられ、親族からは絶縁され、携帯電話の着信はすべて取り立ての催促か、生存確認という名の冷たい事務連絡だけ。
 社会の底辺という泥に足を取られ、もがけばもがくほど沈んでいく。
 数十億を稼ぐ大リーガーと名前が似ているのに、俺の名前には『に』が足りなかった。
 そんな救いの無い人生を終わらせようと、俺は県境の深い森を目指して歩いていた。
 誰も見つけてくれないような鬱蒼《うっそう》とした木々の奥で、静かに首でも吊ろう。もしくは、薬を飲もう。そうすれば、誰にも迷惑をかけずに、この無価値な人生を綺麗に清算できるはずだ。
 そんなことをぼんやりと考えながら歩き続け、たどり着いたのは地図にも載っていない廃キャンプ場だった。
 サビついた炊事場と、腐りかけたバンガローが並ぶその景色は、俺の人生の末路にふさわしい気がした。
 人目を避けて一息つこうと、朽ちかけたバンガローの裏手に回ったその時、俺はあの死体を見つけたのだった。

  ――

 俺は周囲を警戒しながら、男のポケットを探った。罪悪感はなかった。どうせ死ぬつもりだったのだ。怖いものなど何もない。
 ジャケットの内ポケットから、黒い革の財布が出てきた。中を改めると、現金はそれほど入っていなかったが、身分証明書があった。
 『杉岡太一《すぎおか たいち》』
 太田翔平の身分証明書と並べて見る。やはり、自分にしか見えない。年齢も、俺とほぼ変わらない。
 ふと、悪魔のささやきのような、抵抗し難い邪悪な閃きが湧き上がってきた。
「太田翔平は、ここで死ねばいい」
 ふと、そんな言葉が口をついた。
 これほどまでに条件の揃った偶然が存在するのだろうか。
 俺は自分の手を見た。泥を噛んだ爪、絶望に震える指。そして、足元に横たわる、俺と同じ顔をした男を見る。
 太田翔平の人生は、もう完全に詰んでいる。これから森の奥で消えるはずだった命だ。
 なら、この『杉岡太一』として生き直すのはどうだろうか。
 この男には、俺の代わりに死んでもらおう。
 俺は男の服を脱がせ、自分の服と交換し始めた。死体は重く、冷たい。だが、罪悪感よりも『新たな人生を始められる』という高揚感が勝っていた。
「今日から、俺が『杉岡太一』だ」
 泥にまみれた『太田翔平』の人生をこの死体に押し付けて、俺はこいつの人生を送ってやる。顔がこれだけ似ているんだ。少しばかり辻褄《つじつま》が合わなくても、死ぬ気になれば何だってできるはずだ。
 これでもう、これまでの惨めな失敗も、借金も、何者でもなかった自分も、すべてこの森に捨てていける。
 目の前の『太田翔平』に別れを告げ、俺は『杉岡太一』としての第一歩を踏み出すべく、軽い足取りで森を下り始めた。
(つづく)