「石橋くん、君には、来期の新設部署の課長ポストに就いてもらいたい」
先日、部長からそう告げられたとき、石橋は驚きで息を飲んだ。
石橋ワタルは、中堅の電機メーカーに勤める35歳のサラリーマンだ。彼の人生は、決して華々しいものではなかったが、大学卒業後に勤めた今の会社で、地道な努力と真面目さで評価を積み重ねてきた。そして、今。彼の目の前には、人生で最も大きな「選択」が横たわっていた。
新設部署は社運をかけた新規事業だ。成功すれば彼のキャリアは一気に加速するだろう。しかし、失敗すれば彼自身どころか新設部署ごと会社から切り離される可能性すらある。
「光栄です、部長。ただ……」
「ただ、何だね?」
「正直、自信がありません。この案件は、成功例がないだけに社内の反対も根強いです。そして、このポストを引き受けるとなると、今の私の担当案件から完全に手を引かなければなりません。もし失敗した場合、私は後がありません」
「その懸念も理解している。だが、だからこそ君に任せたいんだ。一週間。よく考えてみたまえ。良い返事を待っているよ」
部長は、柔和に微笑んでいた。
一週間は、ワタルにとって永遠にも思える時間だった。新設部署を引き受けるべきか、固い実績がある今の部署に留まるべきか。心の天秤は一向に傾かない。資料を読み込みシミュレーションを重ねても、彼は決断できずにいた。
そして、期限を明日に控えた夜。ワタルは眠れないまま自室のベッドに横たわっていた。
「どうすればいいんだ。新設部署の課長。成功すればいいが、失敗したら……」
不安が波のように押し寄せ、彼の心臓は激しく鼓動する。ふと、彼は時計を見た。午前1時37分。彼はついに、諦めて目を閉じた。
「もういい。少しだけでも、寝よう」
……
ワタルは驚愕した。そこは、普段寝ているはずの殺風景な自室ではなく、豪華なホテルのスイートルームのような場所だった。壁は柔らかなクリーム色で統一され、調度品はすべて重厚なアンティーク。部屋の隅では、暖炉の炎が静かに揺らめいている。
「ここは……?」
ワタルが戸惑っていると、彼の背後のドアが音もなく開き、一人の男が入ってきた。
その人物は、全身が真っ白だった。純白のスーツ、純白の手袋、胸元には純白のバラのコサージュ。
しかし、彼の頭部は、どこからどう見ても、白い羊だった。長い耳がわずかに揺れ、透き通った青い瞳がワタルを見つめている。
彼は一歩近づき、深々と、優雅にお辞儀をした。
「ようこそ、ワタル様。お疲れのところご足労いただき光栄です。私は、執事のミスター・スリープと申します」
ミスター・スリープの声は、落ち着いていて、聞いているだけで心が安らぐような深いバリトンボイスだった。
「ミスター・スリープ?シープ?羊?執事?一体どういうことだ。私は、ただ眠っていたはずですが……」
ミスター・スリープは、銀の盆に載せられたティーカップを、ワタルに差し出した。カップからは、極上のカモミールの香りが漂ってくる。
「ご心配には及びません、ワタル様。ここは、あなた様の夢の中でございます」
彼の言葉に、ワタルはハッとした。羊の顔をした執事など、現実にはありえない。
「夢……」
「ええ。そして、私は、あなたが抱える最も重要な決断を、共に分析し、最適な答えを導き出すために、この夢の夜会に参上いたしました」
ミスター・スリープは、部屋の中央にある優美な一人掛けソファを指し示した。
「さあ、おかけください。そして、あなたの悩みをお聞かせください。新設部署の課長職を引き受けるか、現部署に留まるか。その答えは、この部屋に既に用意されております」
ワタルは、ミスター・スリープの放つ、人を安心させる不思議なオーラに抗うことができず、ソファに腰を下ろした。カモミールティーを一口含むと、張り詰めていた彼の神経が、ゆっくりと緩んでいくのがわかった。
「……ミスター・スリープ。私は、怖いんです。失敗して、すべてを失うのが」
ワタルは、心に溜め込んでいた不安を、堰を切ったように話し始めた。新設部署の事業内容、社内の政治、家族や同僚への責任。すべてを語り終えるのにかなりの時間がかかった。
ミスター・スリープは、一度も口を挟むことなく、微動だにせず、耳を傾けていた。そして、ワタルが話し終わると、彼は静かに、だが自信に満ちた口調で言った。
「ありがとうございます。すべて承知いたしました。では、これより分析結果を、ロジカルにご提示させていただきます」
ミスター・スリープは、暖炉の前に置かれた小さな黒板を指差した。そこには、いつの間にか、複雑な数式と、幾つかのキーワードが完璧なバランスで書き込まれていた。
「結論から申し上げます。ワタル様。あなたは、新設部署の課長職を引き受けるべきです」
ワタルは、息を飲んだ。たった数分の会話で、彼は迷い続けていた答えを断言したのだ。
「その根拠は、以下の三点に集約されます。第一に、現状維持の体制では3年後の昇進の機会を逃す確率が……」
彼は、黒板の数式とキーワードを指しながら、ワタルが気づきもしなかった社内政治の機微や、競合他社の動きまで含めて、完璧なロジックを立ててみせた。その説明は寸分の狂いもなく、ワタルの心を深く納得させた。
ワタルは、不安の霧が晴れていくのを感じた。
「すごい……。その通りだ。そんな視点は私には全くありませんでした。ありがとうございます、ミスター・スリープ。これで、私は……」
ワタルが感謝の言葉を言い切る前に、ミスター・スリープは再び深々とお辞儀をした。
「私の務めは、ここまででございます。さあ、夜明けが近づいてまいりました。あなた様は、最高の気分で目覚めることでしょう」
白い羊の執事は、純白の手袋で、そっとワタルの額に触れた。
「どうぞ、安らかなお目覚めを。そして、最高の決断を」
次の瞬間、彼の視界は真っ白になり、心地よい眠りの底へと引き戻されていった。
……
ワタルは鳥のさえずりで目を覚ました。時計は午前6時。目覚めは驚くほど爽快だった。そして、彼の頭の中には、昨夜までの迷いは一切残っていなかった。
「新設部署の課長職を引き受ける。リスクはあれど、動かなければ未来はない」
彼の脳裏には、ミスター・スリープが示した、具体的な成功確率と、揺るぎないロジックが、鮮明に残っていた。羊の執事は、夢の中の出来事だったはずなのに、その助言は、現実以上に現実的だった。
その日、ワタルは自信を持って部長室のドアを叩き、課長職のポストを引き受けると告げた。
それからの彼のキャリアは、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。ミスター・スリープの助言通りに動いた新規事業は、社内の予想を裏切る大成功を収め、彼は一躍、会社の若きホープへと祭り上げられた。
そして、その夜以来、重要な決断の前夜には、あの完璧な執事、「ミスター・スリープ」が、夢の中に現れるようになった。
……
課長昇進から二年。石橋ワタルに与えられた役職は、新規事業本部の部長代理となっていた。
彼の成功は、社内で一種の神話となっていた。手がけた事業は、全てミスター・スリープの助言通りのタイミングで、予測通りの成果を上げた。彼は「天才的な先見の明を持つ男」として、周囲から一目置かれる存在になっていた。
だが、ワタル自身は、その成功の裏側を知っていた。それは、彼自身の洞察力ではない。白い羊の、完璧な執事の助言に他ならなかった。
成功体験は、麻薬のように彼を蝕んだ。彼は気づけば、重要な社内の決断だけでなく、日常の些細な選択まで、ミスター・スリープに相談するようになっていた。
「部下Aと部下B、どちらをリーダーに据えるべきか?」
「来週の役員会議で、どの色のネクタイを選ぶべきか?」
「この週末、家族と旅行に行くべきか、それとも資格の勉強に充てるべきか?」
もはや、彼は自分で考えることをしなくなっていた。なぜなら、ミスター・スリープの導き出す答えは、常に最善であり、常に正解だったからだ。後になって考えると、相談しなかった判断は、ミスター・スリープの助言には及ばない、不完全なものに思えてくるようになっていた。
「ああ、スリープ氏に聞けばよかった」
そう後悔するたびに、彼のミスター・スリープへの信頼と依存は、さらに強固なものとなっていった。
現実世界でのワタルの行動には、少しずつ異変が生じ始めていた。彼の仕事の進め方は、完璧なデータとロジックに基づいた無駄のないものだった。しかし、スピードが極端に遅かった。彼には、夢の中でミスター・スリープに相談する時間が必要だったのだ。
部下がワタルに相談を持ちかけると、彼は必ずこう言って回答を保留するようになった。
「ああ、その件は明日までに、もう少し資料を精査しておこう。結論は明日、出す」
部下は、不満を顔に滲ませながらも引き下がった。ワタルは、部下の不満を感じながらも、気に留めないように努めた。どうせ今夜、ミスター・スリープが最高の答えを導き出してくれるのだ。自分の未熟な判断で失敗するより百倍ましだ。
しかし、社内でのワタルの評判は、静かに、しかし確実に変化していった。
「石橋部長代理は、頭は切れるけど、決断力がないな」
「いつも何かを待っている感じだ。誰かの指示を仰いでいるのか?」
「ああいう頭の良さだけじゃ、上のポストには行けないだろうな。最後は胆力だよ」
彼は、完璧な答えを追い求めるあまり、現実世界におけるリーダーに必要な「即断力」「直感」、そして何より「責任を持って間違う勇気」を失っていた。
……
ミスター・スリープの助言によって、ワタルは社内で最高の地位の一つ、本部長の座に手が届くところまで来ていた。その最終選考会議を目前に、彼は人生で最も重要で、最も倫理的に複雑な決断を迫られていた。
最終選考のライバルであり、長年ワタルを指導してくれた恩人でもある、部長の些細な不正を告発し、追い落とすべきか。
ミスター・スリープは、過去の夢の中で、部長の不正について示唆していた。告発すれば、ワタルは間違いなく本部長になれる。しかし、恩人を裏切るという行為は、ワタルの最後の良心をかき乱していた。
「今夜こそ、ミスター・スリープに、この道徳的な葛藤を含めた最適解を聞かなければならない」
ワタルは、いつものようにベッドに入り、目を閉じた。早く、意識を夢の世界に飛ばしたかった。
しかし、その夜は、いつになく脳が冴えていた。
(部長の顔がちらつく。告発したら、彼はどうなる?いや、ミスター・スリープが言うことなら、それが最善だ。だが、本当に?)
彼の頭の中で、自己嫌悪とミスター・スリープへの信頼が激しい戦いを始めた。彼は、眠ろうとすればするほど、目が冴えていくのを感じた。
「眠らなければ。眠って、スリープ氏に会わなければ。そうしなければ、私は決断できない」
焦燥感が、彼の心臓を激しく打ちつけた。
結局、その夜、ワタルは一睡もできなかった。豪華なスイートルームも、白い羊の執事も、彼の前に現れることはなかった。
翌朝、ワタルは鉛のように重い体を引きずり出勤した。彼の心も頭の中も、真っ白だった。
恩人を告発するのか。それとも、良心に従って黙るのか。
ミスター・スリープという絶対的な指導者を失った彼は、どこにも動けなかった。
最終選考会議の直前。ワタルは、自分の机に座り込んだまま、完全にフリーズしていた。
「ワタル様。本部長の座を得るためには、部長の告発しか道はありません。なぜ、昨日、眠りにつけなかったのですか?」
ミスター・スリープの、冷たい声が聞こえた気がした。
現実世界の部長が、彼の肩を叩く。
「石橋くん、時間だ。覚悟はいいかね?」
ワタルは、部長の顔を見た。そして、ふと、気づいた。
「……私は、何をすべきなのか、わからない」
彼の頭の中は、まるで電源を抜かれたコンピューターのように、真っ暗だった。自分で考えるという、人間にとって最も基本的な能力が、彼の中から消えていたのだ。ミスター・スリープの完璧な導きを求めるあまり、彼は、最も大切な自らの意思というものを失っていた。
彼は、会議室に入ることができなかった。ドアの前で立ち尽くし、ただ震えていた。
「告発するのか?いや、その後の人生を自分で背負えるのか?告発しないのか?いや、このチャンスを逃せば、ミスター・スリープに失望されるのではないか?」
彼の思考は、無限ループに陥り、結論を出せないまま、意識が遠のいていった。
……
ワタルが次に意識を取り戻したのは、病院のベッドの上だった。
過度のストレスによる重度の疲労と心身症だと診断された。
彼が本部長の最終選考の場に現れなかったことで、社内では大きな騒ぎになった。そして、ライバルである部長が無事に昇進を勝ち取った。
ワタルは、そのまま長期休職に入った。彼のキャリアは、一瞬で終焉を迎えた。
彼は、休職しても状況は変わらなかった。彼は、小さな決断一つでさえ、誰かに頼るようになった。
彼の頭の中には、常にミスター・スリープの厳格な声が響いていた。
「なぜ、自分で決断できないのですか?私がいないと、あなたは何もできない不完全な人間なのですか?」
そんな幻聴が聞こえた気がした。
……
休職から数ヶ月が経った夜。ワタルは、久しぶりに深い眠りにつくことができた。
気がつくと、そこは夢の中のあの部屋だった。壁の暖炉が静かに燃え、極上のカモミールの香りが漂っていた。
そして、部屋の中央には、純白のスーツを着た、白い羊の執事、ミスター・スリープが立っていた。
彼の微笑みは、初めて出会った夜と同じ、完璧で優しいものだった。
「ようこそ、ワタル様。久しぶりでございますね。お越しいただけて光栄です」
ミスター・スリープは、そっと、ワタルの目の高さまで膝をついた。
ワタルは、涙ながらに訴えた。
「ミスター・スリープ!あなたに会いたかった!なぜ、私はあの時、眠れなかったのですか?なぜ、あなたは私を見捨てたのですか!?」
ミスター・スリープは、優しく、しかしどこか虚ろな声で答えた。
「ワタル様。私は、あなた様の深い眠りの中にしか存在できません。あなたが、自己の責任と不安によって目を閉じることができなくなった時、私は役目を終えたのです。私は、あなた様の夢が創造した、完璧な答えという名の幻想です。幻想は、現実を代行することはできません」
彼は、立ち上がり、かつて決断の根拠を書いていた黒板を指さした。そこには、ただ一つの言葉だけが書かれていた。
《自分で考え、自分で間違えなさい。》
「ワタル様。あなた様は、私という杖を、あまりにも長く頼りすぎました。杖を失った今、あなた様の足は、もう大地を踏みしめる力がない」
ミスター・スリープは、深く、そして優雅にお辞儀をした。
「私のサービスは、これにてすべて終了いたします。どうぞ、安らかなお目覚めを。そして、あなた自身の人生を」
白い執事の姿は、暖炉の炎の中に溶け込むように、ゆっくりと消えていった。後には、カモミールの香りだけが残された。
ワタルは、絶望の中で目を覚ました。
その日以来、二度とミスター・スリープを夢で見ることはなかった。
彼の残された人生は、誰かの指示を待ち続け、誰かの決断を頼りに生きる、答えを失った男の静かな残骸となった。
ワタルは、完璧な執事の導きによってすべてを手に入れたが、その代償として、自分自身の人生の主導権を永遠に手放してしまったのだった。
先日、部長からそう告げられたとき、石橋は驚きで息を飲んだ。
石橋ワタルは、中堅の電機メーカーに勤める35歳のサラリーマンだ。彼の人生は、決して華々しいものではなかったが、大学卒業後に勤めた今の会社で、地道な努力と真面目さで評価を積み重ねてきた。そして、今。彼の目の前には、人生で最も大きな「選択」が横たわっていた。
新設部署は社運をかけた新規事業だ。成功すれば彼のキャリアは一気に加速するだろう。しかし、失敗すれば彼自身どころか新設部署ごと会社から切り離される可能性すらある。
「光栄です、部長。ただ……」
「ただ、何だね?」
「正直、自信がありません。この案件は、成功例がないだけに社内の反対も根強いです。そして、このポストを引き受けるとなると、今の私の担当案件から完全に手を引かなければなりません。もし失敗した場合、私は後がありません」
「その懸念も理解している。だが、だからこそ君に任せたいんだ。一週間。よく考えてみたまえ。良い返事を待っているよ」
部長は、柔和に微笑んでいた。
一週間は、ワタルにとって永遠にも思える時間だった。新設部署を引き受けるべきか、固い実績がある今の部署に留まるべきか。心の天秤は一向に傾かない。資料を読み込みシミュレーションを重ねても、彼は決断できずにいた。
そして、期限を明日に控えた夜。ワタルは眠れないまま自室のベッドに横たわっていた。
「どうすればいいんだ。新設部署の課長。成功すればいいが、失敗したら……」
不安が波のように押し寄せ、彼の心臓は激しく鼓動する。ふと、彼は時計を見た。午前1時37分。彼はついに、諦めて目を閉じた。
「もういい。少しだけでも、寝よう」
……
ワタルは驚愕した。そこは、普段寝ているはずの殺風景な自室ではなく、豪華なホテルのスイートルームのような場所だった。壁は柔らかなクリーム色で統一され、調度品はすべて重厚なアンティーク。部屋の隅では、暖炉の炎が静かに揺らめいている。
「ここは……?」
ワタルが戸惑っていると、彼の背後のドアが音もなく開き、一人の男が入ってきた。
その人物は、全身が真っ白だった。純白のスーツ、純白の手袋、胸元には純白のバラのコサージュ。
しかし、彼の頭部は、どこからどう見ても、白い羊だった。長い耳がわずかに揺れ、透き通った青い瞳がワタルを見つめている。
彼は一歩近づき、深々と、優雅にお辞儀をした。
「ようこそ、ワタル様。お疲れのところご足労いただき光栄です。私は、執事のミスター・スリープと申します」
ミスター・スリープの声は、落ち着いていて、聞いているだけで心が安らぐような深いバリトンボイスだった。
「ミスター・スリープ?シープ?羊?執事?一体どういうことだ。私は、ただ眠っていたはずですが……」
ミスター・スリープは、銀の盆に載せられたティーカップを、ワタルに差し出した。カップからは、極上のカモミールの香りが漂ってくる。
「ご心配には及びません、ワタル様。ここは、あなた様の夢の中でございます」
彼の言葉に、ワタルはハッとした。羊の顔をした執事など、現実にはありえない。
「夢……」
「ええ。そして、私は、あなたが抱える最も重要な決断を、共に分析し、最適な答えを導き出すために、この夢の夜会に参上いたしました」
ミスター・スリープは、部屋の中央にある優美な一人掛けソファを指し示した。
「さあ、おかけください。そして、あなたの悩みをお聞かせください。新設部署の課長職を引き受けるか、現部署に留まるか。その答えは、この部屋に既に用意されております」
ワタルは、ミスター・スリープの放つ、人を安心させる不思議なオーラに抗うことができず、ソファに腰を下ろした。カモミールティーを一口含むと、張り詰めていた彼の神経が、ゆっくりと緩んでいくのがわかった。
「……ミスター・スリープ。私は、怖いんです。失敗して、すべてを失うのが」
ワタルは、心に溜め込んでいた不安を、堰を切ったように話し始めた。新設部署の事業内容、社内の政治、家族や同僚への責任。すべてを語り終えるのにかなりの時間がかかった。
ミスター・スリープは、一度も口を挟むことなく、微動だにせず、耳を傾けていた。そして、ワタルが話し終わると、彼は静かに、だが自信に満ちた口調で言った。
「ありがとうございます。すべて承知いたしました。では、これより分析結果を、ロジカルにご提示させていただきます」
ミスター・スリープは、暖炉の前に置かれた小さな黒板を指差した。そこには、いつの間にか、複雑な数式と、幾つかのキーワードが完璧なバランスで書き込まれていた。
「結論から申し上げます。ワタル様。あなたは、新設部署の課長職を引き受けるべきです」
ワタルは、息を飲んだ。たった数分の会話で、彼は迷い続けていた答えを断言したのだ。
「その根拠は、以下の三点に集約されます。第一に、現状維持の体制では3年後の昇進の機会を逃す確率が……」
彼は、黒板の数式とキーワードを指しながら、ワタルが気づきもしなかった社内政治の機微や、競合他社の動きまで含めて、完璧なロジックを立ててみせた。その説明は寸分の狂いもなく、ワタルの心を深く納得させた。
ワタルは、不安の霧が晴れていくのを感じた。
「すごい……。その通りだ。そんな視点は私には全くありませんでした。ありがとうございます、ミスター・スリープ。これで、私は……」
ワタルが感謝の言葉を言い切る前に、ミスター・スリープは再び深々とお辞儀をした。
「私の務めは、ここまででございます。さあ、夜明けが近づいてまいりました。あなた様は、最高の気分で目覚めることでしょう」
白い羊の執事は、純白の手袋で、そっとワタルの額に触れた。
「どうぞ、安らかなお目覚めを。そして、最高の決断を」
次の瞬間、彼の視界は真っ白になり、心地よい眠りの底へと引き戻されていった。
……
ワタルは鳥のさえずりで目を覚ました。時計は午前6時。目覚めは驚くほど爽快だった。そして、彼の頭の中には、昨夜までの迷いは一切残っていなかった。
「新設部署の課長職を引き受ける。リスクはあれど、動かなければ未来はない」
彼の脳裏には、ミスター・スリープが示した、具体的な成功確率と、揺るぎないロジックが、鮮明に残っていた。羊の執事は、夢の中の出来事だったはずなのに、その助言は、現実以上に現実的だった。
その日、ワタルは自信を持って部長室のドアを叩き、課長職のポストを引き受けると告げた。
それからの彼のキャリアは、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。ミスター・スリープの助言通りに動いた新規事業は、社内の予想を裏切る大成功を収め、彼は一躍、会社の若きホープへと祭り上げられた。
そして、その夜以来、重要な決断の前夜には、あの完璧な執事、「ミスター・スリープ」が、夢の中に現れるようになった。
……
課長昇進から二年。石橋ワタルに与えられた役職は、新規事業本部の部長代理となっていた。
彼の成功は、社内で一種の神話となっていた。手がけた事業は、全てミスター・スリープの助言通りのタイミングで、予測通りの成果を上げた。彼は「天才的な先見の明を持つ男」として、周囲から一目置かれる存在になっていた。
だが、ワタル自身は、その成功の裏側を知っていた。それは、彼自身の洞察力ではない。白い羊の、完璧な執事の助言に他ならなかった。
成功体験は、麻薬のように彼を蝕んだ。彼は気づけば、重要な社内の決断だけでなく、日常の些細な選択まで、ミスター・スリープに相談するようになっていた。
「部下Aと部下B、どちらをリーダーに据えるべきか?」
「来週の役員会議で、どの色のネクタイを選ぶべきか?」
「この週末、家族と旅行に行くべきか、それとも資格の勉強に充てるべきか?」
もはや、彼は自分で考えることをしなくなっていた。なぜなら、ミスター・スリープの導き出す答えは、常に最善であり、常に正解だったからだ。後になって考えると、相談しなかった判断は、ミスター・スリープの助言には及ばない、不完全なものに思えてくるようになっていた。
「ああ、スリープ氏に聞けばよかった」
そう後悔するたびに、彼のミスター・スリープへの信頼と依存は、さらに強固なものとなっていった。
現実世界でのワタルの行動には、少しずつ異変が生じ始めていた。彼の仕事の進め方は、完璧なデータとロジックに基づいた無駄のないものだった。しかし、スピードが極端に遅かった。彼には、夢の中でミスター・スリープに相談する時間が必要だったのだ。
部下がワタルに相談を持ちかけると、彼は必ずこう言って回答を保留するようになった。
「ああ、その件は明日までに、もう少し資料を精査しておこう。結論は明日、出す」
部下は、不満を顔に滲ませながらも引き下がった。ワタルは、部下の不満を感じながらも、気に留めないように努めた。どうせ今夜、ミスター・スリープが最高の答えを導き出してくれるのだ。自分の未熟な判断で失敗するより百倍ましだ。
しかし、社内でのワタルの評判は、静かに、しかし確実に変化していった。
「石橋部長代理は、頭は切れるけど、決断力がないな」
「いつも何かを待っている感じだ。誰かの指示を仰いでいるのか?」
「ああいう頭の良さだけじゃ、上のポストには行けないだろうな。最後は胆力だよ」
彼は、完璧な答えを追い求めるあまり、現実世界におけるリーダーに必要な「即断力」「直感」、そして何より「責任を持って間違う勇気」を失っていた。
……
ミスター・スリープの助言によって、ワタルは社内で最高の地位の一つ、本部長の座に手が届くところまで来ていた。その最終選考会議を目前に、彼は人生で最も重要で、最も倫理的に複雑な決断を迫られていた。
最終選考のライバルであり、長年ワタルを指導してくれた恩人でもある、部長の些細な不正を告発し、追い落とすべきか。
ミスター・スリープは、過去の夢の中で、部長の不正について示唆していた。告発すれば、ワタルは間違いなく本部長になれる。しかし、恩人を裏切るという行為は、ワタルの最後の良心をかき乱していた。
「今夜こそ、ミスター・スリープに、この道徳的な葛藤を含めた最適解を聞かなければならない」
ワタルは、いつものようにベッドに入り、目を閉じた。早く、意識を夢の世界に飛ばしたかった。
しかし、その夜は、いつになく脳が冴えていた。
(部長の顔がちらつく。告発したら、彼はどうなる?いや、ミスター・スリープが言うことなら、それが最善だ。だが、本当に?)
彼の頭の中で、自己嫌悪とミスター・スリープへの信頼が激しい戦いを始めた。彼は、眠ろうとすればするほど、目が冴えていくのを感じた。
「眠らなければ。眠って、スリープ氏に会わなければ。そうしなければ、私は決断できない」
焦燥感が、彼の心臓を激しく打ちつけた。
結局、その夜、ワタルは一睡もできなかった。豪華なスイートルームも、白い羊の執事も、彼の前に現れることはなかった。
翌朝、ワタルは鉛のように重い体を引きずり出勤した。彼の心も頭の中も、真っ白だった。
恩人を告発するのか。それとも、良心に従って黙るのか。
ミスター・スリープという絶対的な指導者を失った彼は、どこにも動けなかった。
最終選考会議の直前。ワタルは、自分の机に座り込んだまま、完全にフリーズしていた。
「ワタル様。本部長の座を得るためには、部長の告発しか道はありません。なぜ、昨日、眠りにつけなかったのですか?」
ミスター・スリープの、冷たい声が聞こえた気がした。
現実世界の部長が、彼の肩を叩く。
「石橋くん、時間だ。覚悟はいいかね?」
ワタルは、部長の顔を見た。そして、ふと、気づいた。
「……私は、何をすべきなのか、わからない」
彼の頭の中は、まるで電源を抜かれたコンピューターのように、真っ暗だった。自分で考えるという、人間にとって最も基本的な能力が、彼の中から消えていたのだ。ミスター・スリープの完璧な導きを求めるあまり、彼は、最も大切な自らの意思というものを失っていた。
彼は、会議室に入ることができなかった。ドアの前で立ち尽くし、ただ震えていた。
「告発するのか?いや、その後の人生を自分で背負えるのか?告発しないのか?いや、このチャンスを逃せば、ミスター・スリープに失望されるのではないか?」
彼の思考は、無限ループに陥り、結論を出せないまま、意識が遠のいていった。
……
ワタルが次に意識を取り戻したのは、病院のベッドの上だった。
過度のストレスによる重度の疲労と心身症だと診断された。
彼が本部長の最終選考の場に現れなかったことで、社内では大きな騒ぎになった。そして、ライバルである部長が無事に昇進を勝ち取った。
ワタルは、そのまま長期休職に入った。彼のキャリアは、一瞬で終焉を迎えた。
彼は、休職しても状況は変わらなかった。彼は、小さな決断一つでさえ、誰かに頼るようになった。
彼の頭の中には、常にミスター・スリープの厳格な声が響いていた。
「なぜ、自分で決断できないのですか?私がいないと、あなたは何もできない不完全な人間なのですか?」
そんな幻聴が聞こえた気がした。
……
休職から数ヶ月が経った夜。ワタルは、久しぶりに深い眠りにつくことができた。
気がつくと、そこは夢の中のあの部屋だった。壁の暖炉が静かに燃え、極上のカモミールの香りが漂っていた。
そして、部屋の中央には、純白のスーツを着た、白い羊の執事、ミスター・スリープが立っていた。
彼の微笑みは、初めて出会った夜と同じ、完璧で優しいものだった。
「ようこそ、ワタル様。久しぶりでございますね。お越しいただけて光栄です」
ミスター・スリープは、そっと、ワタルの目の高さまで膝をついた。
ワタルは、涙ながらに訴えた。
「ミスター・スリープ!あなたに会いたかった!なぜ、私はあの時、眠れなかったのですか?なぜ、あなたは私を見捨てたのですか!?」
ミスター・スリープは、優しく、しかしどこか虚ろな声で答えた。
「ワタル様。私は、あなた様の深い眠りの中にしか存在できません。あなたが、自己の責任と不安によって目を閉じることができなくなった時、私は役目を終えたのです。私は、あなた様の夢が創造した、完璧な答えという名の幻想です。幻想は、現実を代行することはできません」
彼は、立ち上がり、かつて決断の根拠を書いていた黒板を指さした。そこには、ただ一つの言葉だけが書かれていた。
《自分で考え、自分で間違えなさい。》
「ワタル様。あなた様は、私という杖を、あまりにも長く頼りすぎました。杖を失った今、あなた様の足は、もう大地を踏みしめる力がない」
ミスター・スリープは、深く、そして優雅にお辞儀をした。
「私のサービスは、これにてすべて終了いたします。どうぞ、安らかなお目覚めを。そして、あなた自身の人生を」
白い執事の姿は、暖炉の炎の中に溶け込むように、ゆっくりと消えていった。後には、カモミールの香りだけが残された。
ワタルは、絶望の中で目を覚ました。
その日以来、二度とミスター・スリープを夢で見ることはなかった。
彼の残された人生は、誰かの指示を待ち続け、誰かの決断を頼りに生きる、答えを失った男の静かな残骸となった。
ワタルは、完璧な執事の導きによってすべてを手に入れたが、その代償として、自分自身の人生の主導権を永遠に手放してしまったのだった。