集団ストーカー 音声送信 電磁波攻撃 雑記2017-0120
■過去の回顧
2015年1月から始まった加害組織の音声は、姿の無い声だった。その声をどのように解釈するか?
どうして声が聞こえるのか?誰もいない。
声は、自分を馬鹿にしたような感じの言葉だった。正確には思い出せない言葉だったが、声のするところを見ても何もわからない。
その声をどのように解釈するかが問題だ。
声が聞こえるのは間違いない。だが姿はない。どういうことなのか自問自答をする余裕はなく、恐れるままだった。
自分に対する加害だと自覚するようになったのはそれからかなりたってからだ。
声が聞こえ始めてやがて相手と会話するようになった。会話は頭の中で行っていた。自分が声に対して何か考えるとその考えに対して何か言ってくるのだ。
私の場合は自然に会話になった。
始めの頃は相手に対して警戒していたはずだが、まるっきり敵対していたわけではなかった。
当初の会話の内容はブログに書けるような内容ではないが、かなりプライバシーに踏み込んだものだった。過去の出来事が話題に夏たり、いつもの生活が話題になったりした。その会話は、何か罪になるような事柄を言われたり、それで「まずいことを言われているな」のような内容の会話だったから、私から見れば、どうしてそんなことを知っているのか疑問でもあった。
加害組織は私の過去までよく知っていた。私の考えることも感覚もモニターされていることを自覚させられた。
そういう状況の初期がやがて激変する。次から次へと違う相手が現れた。声の主は、一番最初の声の主以外は、素性を語ってきた。
声の主が素性を語ってくるのは珍しいことではないと思うが、私はその都度、相手をした。ある時は敵対的に、ある時は助けてくれないかと中立的な相手に思っていた。
そんな激変期に行動誘導が始まった。行動誘導は、他の人から見て馬鹿だと思われるようなこと誘導させられる。行動中は馬鹿なことだと自覚はしない。
行動誘導が何度か行われて、ついに逃げるようになった。それが救急車を呼ぶまで身体攻撃が激化した時だった。
とにかく1日入院で6万円くらい損害が出た。悪くもないのにいろいろな検査をしたし、経過観察のように1日入院することになったからだ。
やがて難なく退院することになったが、再び行動誘導のための身体攻撃が始まった。それでまた他人から見たら馬鹿なことを行動誘導された。
何度か行動誘導されてから2015年4月少し前くらいだと記憶しているが、加害組織がいろいろ消しかけてくる言葉を無視するようになった。
「人間死ぬ時は死ぬんだ、まあ、殺すなら殺せや」ってな感じで考え始めた。
それから何度もきつめの身体攻撃はあったものの、耐えていた。耐えながら、身体攻撃の感覚をじっくりと観察するようにした。
そうしているうちに、身体攻撃も弱くしてきた。それに加害組織の声も最初の頃の声のような感じがなくなり、より聞き取りにくい感じの声になった。
加害方法は変化してきた。その傾向は他の被害者でも同様だ。
今では順調に加害を観察している。身体攻撃で多いのが頭を中心にしたものだ。圧迫、不快な感覚が中心だ。何度か頭痛攻撃してくるが、私の場合閃光暗点の経験が小学生からあるため、そんなに痛く感じない。
閃光暗点も加害組織がしている感じはある。もっとも、閃光暗点の視覚だけだ。頭痛はない時がある。ただ、加害組織によるものかは不明だ。加害組織がやっているかのように言うが、明らかに加害組織の仕業の場合は、いつもの閃光暗点とは異なるものが多い。
被害の自覚は、被害をどのように理解するかにかかっている。被害妄想を植え付けられてそれを自覚できないことが最も大きな被害だ。
相手は半端な科学技術ではないと考えている。だから、他の被害者が創価学会の仕業だとか、身近な近所の仕業だと言っているのを見ると、相当頑固な被害妄想を植え付けられていることがわかる。
もっとも、加害者を創価学会だと言ったり、近所の人だと言っているのは、そのほうが加害組織に有利に働くことと自分の被害を他人に訴えるときに便利だからだろう。
だが、身近な人に加害方法が可能な技術なんてありえない。
多くの被害者は思考盗聴さえも信用していない様子だ。集団ストーカータイプの被害者ブログを読むと確かに思考盗聴など感じないのも当然だろうと思う。その割には、極秘の盗聴盗撮を口にすることはあるのだが。
でもまあ、私のように心に隠せるものがない状況じゃないのは、日常生活の面で、性格的に、もっともなことだろうと考えている。
現状の私には加害組織に対する心の独立は存在しない。変な言い方だろうが、寄生獣のミギーが体内にいるようなものと考えてもらえればいいだろう。
何でも知られるのだ。人によっては耐え難いだろう。
それでもどうしようもない状況で、太平洋のど真ん中で乗せられた船から島を求めて泳ぐのは自殺行為でしかないから、まあ、こんな状況でも相手を観察しながら生きるしかないと決めている。
そこは、「大船に乗ったつもりで」どんと腰を据えている。