語録31 | パーサによるトマスの福音書

パーサによるトマスの福音書

Closing the Circle: Pursah's Gospel of Thomas and a Course in Miracles

「神の使者」、「不死というあなたの現実」で再生された、トマスの福音書について書かれた「Closing the Circle」の和訳です。

野口博和さんから以前頂いてた、和訳をアップしています。

 語録31

預言者は故郷の町では受け入れられない。医者は彼を知っている者を治療しない。

A prophet is not acceptable in his own town. A doctor does not heal those who know him.


『神の使者』で、パーサは、この言葉と、彼女が新約の「続編」と見なすその他のいくつかについて、少しだけコメントしている。彼女は、それらが正典福音書に引用されていると述べており、過度の文字通りの解釈をしないよう警告し、キリスト教の伝統から私たちが受け取るような意味とはしばしば異なるという事実に、注意しなくてはならないと言っている。

 そのようなコメントはおそらく、この言葉の本質に触れていて、その主要な点は、私たちは、自分の知覚を過去に基づかせるのではなく、むしろ今、ものごとを新たに聞くべきだということである。
固定観念は、まさに今私たちの目の前にあるものを見ることを妨げてしまう。だから、この世界のレベルで、私たちが、誰かを知っていると思い、しかもその人が奇跡を差し出してくれているとは思っていても、(いわゆる「経験」という)自我の観点によって、過去に基づいてその人に反応するなら、私たちはきっとその奇跡を拒んでしまうだろう。実際、彼らが今ここで、差し出してくれているものに耳を傾ける代わりに。そうして、私たちの即座の判断と、閉ざされた心が、癒しの機会を妨げてしまうのである。
これはコースによくあるテーマであり、*1「原因と結果」 (T-2.Ⅶ)のような節で、イエスは、私たちの招く時だけやって来ることをはっきり示している。

 すべての出会いは、もちろん、「聖なる出会い」の卵であり、私たちはいつも聖なる神のひとり子に会う。それは一つの公言日 (顕現日、epiphany)*2であり、自我は、必ず私たちに、人を彼や彼女の過去の観点から、それゆえ身体として見させることで、それを妨げようとするのである。

*2(キリストが神の子としてこの世に現れたことを記念する日。)

(野口博和訳)

*1:発行者注
「原因と結果」 (T-1.2.Ⅶ)となってましたが、T-2.Ⅶに修正しました。2013/09/10