語録26 | パーサによるトマスの福音書

パーサによるトマスの福音書

Closing the Circle: Pursah's Gospel of Thomas and a Course in Miracles

「神の使者」、「不死というあなたの現実」で再生された、トマスの福音書について書かれた「Closing the Circle」の和訳です。

野口博和さんから以前頂いてた、和訳をアップしています。

 語録26

あなたがたは兄弟の目のなかのチリには気づくが、自分の目のなかの丸太は見えない。自分の目から丸太を取り除けば、はっきり見えるようになり、兄弟の目のチリも取ることができるだろう。

You see the speck that is in your brother’s eye, but you do not see the log that is in your own eye. When you take the log out of your own eye, then you will see clearly enough to take the speck out of your brother’s eye.


『神の使者』 では、語録26、313654の話が組み合わされているが、そこでは、いくつかのトマスの言葉が、新約の正典文献のなかでとても密接に引用されていること、そしてそれらは、パーサの言葉で言えば、「続編 (prequels)」だったということが指摘されている。

ここで重要なのは、トマス版のこれらの言葉は、新約正典の福音書と比べて、最も素朴で、最も独創的で、最も磨き抜かれていない感じの印象があることである。 こうした考えは、注意深い読者なら思い浮かばざるを得ないだろうし、この内的証拠は、トマスの福音書を、明らかに正典福音書の前、それゆえ、もっと重要なことには、パウロによる編集の影響の前に位置づけることを、ますます多くの聖書学者たちに考えさせている。
この時系列を理解することは、なぜトマスのイエスは全くキリスト教徒のように思えないのかを、はっきり説明してくれるし、この見解は、キリスト教の背景からやって来たにもかかわらず、いつの間にか トマス文書の信頼性を受け入れている人々の間に、かなりの驚愕を引き起こしている。

実際、注意深い読者がこの問題に気づくはずだというだけでなく、ジェファーソンが晩年、「Jefferson Bible」となるべきものの編集に取りかかった時、洞察鋭く同じパウロの編集上の影響を見分け、厳格にそれらの段落を削除したことに、私たちは注目すべきである。
しかも驚くべきことに、彼はこれを、トマスの福音書が再発見されるずっと前、さらには オクシュリュンコス断片* の発見よりも前に行っていたのである。
(*1800年後期、エジプトのオクシュリュンコスで発見されたギリシャ語訳文献の一部。)
自我が、その曲がったいわゆる洞察力 (vision)により考え出した、どんなかたちの「援助 “helping”」も、常に攻撃である、なぜならそれは、きょうだいに対する罪悪感の投影を含んでいるからである。
そして、私たちが贖罪を受け入れた時だけ-つまり、何も起こっていないし、「小さな狂気の考え」(分離)はほんの束の間の錯覚であり、愚かな間違いだったと、十分にそして経験的に気付いたとき-そのときだけ、私たちはきょうだいにとって助けとなることができるのである。
別の言葉で言うなら、医者よ、汝自身を癒やせ、である。 コースはこうはっきりと示している、私たちがまず自分自身に癒しを受け入れた場合だけ、それは私たちを通して流れることができる、と。

 これはまた、なぜコースがこのように言うかという理由でもある、
「神の教師の唯一の責任は、贖罪を自分自身に受け入れることである。」
“The sole responsibility of God’s teacher is to accept the Atonement for himself.” (M‐18.4:5)
しかし、またそれは(語録24と共に)、次の言葉にあるように、自我をどかしたときに私たちを通り抜ける、癒しの流れを強調してもいる。:

なぜなら、このことだけを私は求めるからである、あなたが私の語る言葉を聞き、それを世界へ伝えることを。 あなたは私の声、私の目、私の手、私の足であり、それによって私は世界を救う。私がそこからあなたに呼びかける 「自己」は、ただあなたのものにすぎない。「彼」のもとへ、私たちは共に行く。あなたのきょうだいの手を取りなさい、なぜならこれは私たちだけで歩む道ではないのだから。彼のうちで、私はあなたと共に歩み、あなたは私と共に歩む。我々の「父」は、「その子」が御自分と一つであるようにと望まれている。それでは、命あるもので、あなたと一つであってはならないものなどあるのだろうか?

For this alone I need; that you will hear the words I speak, and give them to the world. You are my voice, my eyes, my feet, my hands through which I save the world. The Self from which I call to you is but your own. To Him we go together. Take your brother's hand, for this is not a way we walk alone. In him I walk with you, and you with me. Our Father wills His Son be one with Him. What lives but must not then be one with you? (W-rⅤ.in.9:2-9)

コースを通して、その論理は、まず自分自身に助けを受け入れ、そしてそれを拡張することによってだけ、私たちはきょうだいに対して、助けとなることができる、ということである。もし、自我と共に助けようと試みるなら、私たちは常に傷の悪化を引き起こす。

(野口博和訳)