「土日に思いっきり遊ぶと、翌日疲れが残って」などと言うサラリーマソが多い。

だが、それはナンセンスだと思う。


遊んでいながら疲れるなど本末転倒もはたはだしい、
というか、そうなってしまうのは、そもそも遊び方が良くないんじゃないか。


土日に遊ぶことは、ストレスを解消すると同時に、
「自分自身をクリエイティブにすること」だともいえる。


今までのライフスタイルでは、週末の休みには肉体を休めて、
翌日からの労働に備えるというものだった。


つまり、ウィークデーの仕事で疲れた体を回復させるためだけの休日だったわけ。

ところが、最近では仕事の内容も大きく変わっている。


今は、肉体労働がどんどん減少し、頭脳労働が増加している。
いままで、肉体でこなしていた仕事は機械やコンピューターに変わっているし
書類ですら、ペンを使って書くことはなくなった。


つまり、肉体はそれほど疲れない 


にもかかわらず、精神的には疲労がたまる人が増加してくるのも当然といえる。

いまは、精神科医のカウンセリングを受けることが、一般の人の間でも、
もはや常識になっている。


精神的なストレスがたまっていると感じている人は、どんどん増加している。
日本もいよいよ欧米型のストレス社会に突入になってるかもしれない。


では、どうすればいいのか。


まず、精神的なストレスを解消して、自分自身をクリエイティプにする。


かつては肉体を休めたが、これからは肉体そのものの疲労は少ないのだから、
精神を休めて肉体を使うという過ごし方がよい。


よく、月曜日に「疲れた、疲れた」と言っては会社に出てくる人が多いが、
その人たちによく聞いてみると、
その原因は接待ゴルフだったり、家族サービスだったりする。


彼女と思いっきり遊んで疲れたと言っている人は少ない。


接待ゴルフにしろ、家族サーピスにしろ、
自分側からすると、相手へのサービスにつきるわけで、
これが精神的な疲労を伴わないわけがない。


また家族サーピスも、家族と共に遊ぶのが本来の姿だと思うのだが、
それが本当にただの「サービス」になりさがっているのはなんだか不思議だ。


少なくとも、頭脳労働をしている人たちは、こういった
ストレスをため込むようた遊び方は見直すべきだろう。


土日に遊ぶということ、自分をクリエイティブにすること という視点から、
土日の生活の改善に取り組んでみるといいかも知れない。


何をすれぱよいのかというよりも、まずは気持ちの持ち方が大事ではないだろうか。

そうして、いつも追いかけられている生活を、自分を
少しは取り戻してみてはどうだろうか?

仕事が嫌になるとき


サラリーマンなら、やりたくない仕事だってやらなくてはならない。


わけのわからない、頭の悪い上司はやたらめったら無理難題を押し付けてくる。

頑張っているのにまったく評価してもらえない。


「これは会社の決定だから」と、くだらないことをやらなければならない。


社内の人間関係もやっかいだ。
希望を持って会社に入り、毎日一生懸命、仕事に取り組んできた。

大人だからと、イヤなことも、多少はガマンしてきた。


しかし、さまざまな現実に直面するうちに会社や仕事に疲れ、「こんなことを
毎日やって一生を終わるのか」と思うと、ほとほとイヤ気がさしてしまった。


私と同じく、このような感情を抱いている人は、決して少なくないとおもう。

会社の環境を変えることができればいいのだが、そんな希望はかなうはずもない。
下手をしたら社内での立場がいっそう悪いものになってしまう。


だからといって、この景気では転職がそうそう簡単に実現するものではない。

会社を辞めることができれば簡単だが、
結局、生活を考えれば会社に残るしか道はない。


そしてますます絶望的な気分になってしまう。


だから、私はこんな風に思っている。
会社勤めの私にとって、会社や仕事は重要だ。
仕事が思うようにいかなければ、むなしい気分になる。


しかし、人間は、企業人である前に、一個人である。
だから、人間らしく生きることの大切さを知ることだと思う。
少し大げさだろうか(笑)


じぶんにとって、ほんとうにやりたいことは何だろうか。
趣味でも良いと思う。


思い当たるものがないという人も、とりあえず何か行動してみてほしい。
街へ出かける、友達に電話をする、本を読んでみる。

犬も歩かなければ棒には当たらない。
何かしなければ、何も起こらないにだ。


そして仕事は、少し力を抜いてみる。
そうしたら、きっとうまくいくとおもうのだが。

うそをつくものがすべてうそつきとはいえません。


うそということぱを広く解釈すれぱ、

お世辞やお愛想も一つのうそだといえますが、

お世辞をいったからといって、うそつきとはかぎりません。


また、うそつきが非難されるべきだとしても、
お愛想がはたして道徳的に非難されるべきかどうかは間題です。


ここでは、よいうそと必要なうそについて考えてみたいと思います。


事の真相を知っていながら、わざとクロをシロというのがうそですが、


わたしたちのまわりには真相を十分知っていながら、わざといいかえを
しなければならない場合、
うそをついたほうがよい場合さえ考えられます。


がんとわかった患者に対して、がんと告げる医者ばかりではないでしょう、
がんでなくとも、死と直面している患者に、「あなたはだめでしょう。」
と、言い切る医師はいません。


これらは、いうべき「うそ」でしょう。
患者自身に、自分はもうだめだと思わせたら、万に一であっても回復の
チャンスはなくなってしまいます。


アメリカの小説に、『最後の一葉』というのがあります。
病室の窓から見える木の葉が木がらしに吹かれて、一枚ずつ散っていく、
それを見ている患者は、それにつれて元気がなくなります。

木の葉が全部散るとき、わたしも死ぬだろうというのです。


それをあわれんだ老画家は、木の葉の絵を描いて枝にくくりつけます。

これは、小説です。しかし、良いうその典型的なものではないでしょうか。


医師が患者にわざとうそをいうのは、
これは、もう「義務」と考えてもよいかも知れませんね。