こんにちは。
いそべ晶子です。
手拍子がうまくできなかった頃、なにを繰り返していたか、というと、
その場に起きているグルーヴの「ここ」に、この形の手拍子を打つ、というのが感覚的には分かるけど、頭を通すとそれは完全な等間隔ではないと分かって、いましていることとズレが出て、いったんズレると、今度はどこから入ればいいのか分からなくなる
…という感じだったかな。
練習しようとメトロノームを使ってみたが、あのカッチカッチという音のどこで打ったらいいのか、よく分からない。たびたび混乱した。
カ、、ッ、、ッ、、ッ、、チ、、カ、、
のどこが正解なのか、自分で決めることから始めたらいいと分かったのは、しばらく経ってから。まぁ、ここ最近ね。笑
日食なつこさんの「致死量の自由」という曲では、ラスト近くに手拍子が入る。変拍子の。
よく聞いて、打てるようになったのは、料理に使うボウルを裏返して置いた半球の面に沿って打音(の形)を重力を振り分けるように入れるイメージ(笑)ができてから。
世間のルールや常識は、わたしにはメトロノームのようなもので、合わせようと思うと、自分の方にズレるところが出てくる。
そのことは、ときに、目の前の現実にそって生きることを難しく感じさせることもある。
グルーヴで生きている人は、きっと、いまここでこうするのが凄くいい、というところに、すっと入って生きている。それは、決まりがない。
いまはこうでも、次の瞬間には同じではないから。
その、いまここの凄くいいコレ、のイメージを、その瞬間その瞬間に共有できる人どうしが繋がると、大きなグルーヴになって変化が起きていくのではないか。
その繋がりは、ときに目の前に表れていなくても、量子はどこかでもつれているに違いない。
(いまここで、どんな量子をもつれさせよう?)
感謝をこめて
douxnido いそべ晶子
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