今週も1週間、終わりました〜。
気がつけば、いろんな人と触れ合った1週間でした。
そんな忙しい時って、
すこし境界線がルーズに、ゆるめになってしまいます。
いい意味でも、悪い意味でも。
(大塚国際美術館にあった、聖フランチェスコの絵。アッシジの教会の複製だそうです)
今日は、スピリチュアルについて思ったことを一つ書きます。
今日は、職場の仲良くしていただいてる方と、
たまたま話の流れで、
スピリチュアルな話を軽くする機会がありました。
かるーい気持ちで、お話したのですが。
その人たちは、見えない世界やなんかは、全然信じていない人たちだったので、
最後の方には、
やはり伝わることと、伝わらない、伝えられないことってあるなあと感じました。
片方は男性で、その奥さんが、スピリチュアル大好きらしくて、
かなりディープな占いや霊媒師、祈祷師のところへ連れて行かれるのだとか。
私が聞いてると、けっこう初歩の人が陥りがちな「スピ」だなあと思って、
お話を聞いてました。
お話しながら、
やはりスピリチュアルはすでに人々の日常レベルになってきていて、
身近な話題であって、
それほど隠すことではなくなってきてる?という実感も受け。
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その一方で、スピリチュアルの、
その真髄の部分の理解や経験というものは、
その人が本心から求めない限り、永遠にたどりつけないものなんだと、感じました。
他人事のようにただ外からみているだけでは、
信じるとか、
内なる対話とか、永遠に無理なんだなと。
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宗教やってても、人として気持ちよくない人もいれば、
無宗教だけど人として立派な愛の人もいる。
それは、前から思っていました。
なので、スピリチャルを信じるか否かとか、信仰の有無で、人は判断できない。
だから、私はスピリチュアルを好きか嫌いかや、
信じるか信じないかで、相手を蔑んだりしない、と考えています。
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でも、やはり信じてない人は、
信じてる人のことを理解できないから、
スピリチュアルや神仏のことを非常に毛嫌いする、
無意識にも態度に出てしまうところもあるんだなぁと、
客観的に確認した日にもなりました。
話の流れで、
私の買ってきた神道の本を、たまたま見せたら、
「興味ないわー」
と、ぽんって無造作に投げられて、
ちょっと、「え?」と思って。
ちょっとショックだった自分がいて。
そのチクっとした気持ち。
どうしてなんだろう?と
じーっと見つめていたら、
私の心の一部が投げられてる気持ちだったと、あとになって、気づいた。
その方は、既存の宗教は嫌いで、
ひとりひとりが自分の宗教を持てばいいとおっしゃっていた。
しかし、既存の宗教をいろいろと信じる人や、
そこから生きるヒントをもらっている、
真摯に学ぼうとしている人を、否定することはできないはず。
理解が、浅いなあと思った。
理解する前に、拒絶しているので、毛嫌いの部類だと思いました。
自分が生きてきた40年で、
ずっと見つめて、積み上げてきた知恵や気づきを、
すこしでもシェアしようとしていた私は、うかつだったなあと思いました。
境界線がルーズになっていたとは、このことです。
本当に必要な人に、
必要な時しか、
そういう知恵や叡智は、提供してはいけないのです。たぶん。
(鳥に説教をする聖フランチェスコ。これもアッシジの教会の壁画から。)
私のスピリチュアルは、
現世利益を求める方法としての占いや霊媒師めぐり、
パワースポット巡りではないんです。
みんな初歩は、そこから入っていくとしても。
私は20代の前半で、それは終わっています。
いまの私の考えるスピリチュアルは、
わたしがここにいることで、神さまが喜ぶように、生きること。
神さまが喜ぶような人間として、在ること。
毎日が、生活が、仕事が、実践だと思っています。
寺社仏閣など、自分が聖なる場所と感じるところへいくのは、
自分を見つめなおしたり、
神さまと対話して、
自分の生き方やあり方を問い直したり、
エネルギーチューニングすること。
内なる対話なのです。
なので、その人たちの思っている興味とは、
全く違っていました。
それも、経験しないと、
その違いを、人は理解できないのです。
いつまでも、塀の外を回って想像してるだけで、塀の内側のことはわからないみたいに。
この美しい青の教会で、
静かに、無言でいるときの幸せ。
こちらも、大塚国際美術館の陶板画の再現です。
熱く書いちゃいましたが。
また続きは今度ということで!!