「あなたはね。いつだって擬態化できるのよ。それって特殊な能力で人となりのものかしら。とても羨ましいわ」
僕は春菜が運転するマツダ「ロードスター」の助手席でぐったりしていた。時計の針は既に丑三つ時をまわっている。
春菜は巧みにギアチェンジを繰り返しながらエンジン音を変えている。もう半ば僕は疲労が蓄積していて、やさぐれていた。彼女の問いに返答することもなく車窓から外を黙視していた。擬態化とは動物や植物などが攻撃するとき、又は自衛本能が働くとき、他の動植物に器用に似た形や色彩に変化しその姿勢を保ちつづけることだ。別のものの様子に似せ自分にカモフラージュをかけていくことの例えで、悪く言えば隠蔽的な性質を臭わせている。僕は体力の限界がおとずれていたので思考力が壊滅的であった。擬態化を得意とするカメレオンやバッタ、ナナフシなどの名前が思い浮かぶだけで、それ以上の想像力を働かすことが不可能であった。
「あなたは擬態化できる」
と云われても、褒め言葉なのか悪口なのか頭で処理することは困難を極めていた。とにかく喉が渇いていたし2リットルぐらいの水を一気に飲みたかった。異様な寒気からか睡魔も同時に襲ってきているけど、まずは口内を水分で潤したかった。しかしマツダ「ロードスター」が滑走する道は漆黒の暗闇を切り裂いているだけで、一向に人工的な、要は自動販売機やコンビニエンスストアーといった不眠不休で運転するドライバーにとってのオアシスは現れない。すれ違う対向車にも出くわせない孤独な道をヘッドライトが奇妙に照らしている。ふと上を見上げれば頭上に飛び込む風景はパノラマのような星空に鬱蒼と伸びる木々が永遠に続くだけ。その光景は数え切れない樹木たちが柱となって擬態し、見渡す全ての星空を支えている様にもみえる。
春菜との出会いは至って普通のものであった。このブログをつかってエッセイじみた遊びを試み始めた僕にとって、彼女とのエピソードを言葉として今現在に蘇生することは容易かった。でも、けして、なりそめの様な話では無いのに、ブログで介すべきか、それとも自分の心の本棚にそっとしまっておくべきかしばらく悩んだ。ひとつの物語となれば必ず相手が存在する。昔の無声映画とは違うし様々な人間関係が重なり合っているからこそ文脈になる。
特に僕が文章としてあぶり出しているのは虚構が錯綜するフィクションではない。ちゃんとこの世に存在する人間が主役でありバイプレーヤーでもあるからです。
だからこそ相手に配慮することは当然のことだし、描くことは細部に渡って子細にフィルターをかけなくてはならない。相手が実在するのであれば個人情報などのデリケートな部分を丁寧に削り取る作業は欠かせない。ところが今文章に起こそうとしている仮の主題は「擬態」だ。
幾多にもフィルターを被せてしまうと本題からも遠のいてしまうし、自分が一体何を表現しようとしているのか、書いている当事者さえもわからなくなってしまう迷いが先行してしまう。僕は春菜に対し敢えて恐悦至極の思いを念頭におきながら彼女のことをブログで蘇生させることで決心に至る。
マジックミラーのような技術を文面に埋め込むことは不可能に近い。マジックミラーの向こう側に誰かが僕を目視している。でも、こちら側から見えるのはソファーに座っている自分自身。自分がどう鏡に写っているのか瞬時に確認することはできるが、鏡の向こう側で、だれが、どんな表情で僕を睨み、散見しているかは反対側にいる本人にしかわからない。
僕はある目標をもってダブルワークしていた時があった。ひとつは洋服屋の店員です。朝から晩まで売り子としてアルバイトしていたことがあった。働いていたお店は何故か婦人服売場。あるアパレル仲間から切望されて、ウィメンズの商材しかおかれていない店頭にフルでたつことになった。
もちろん周囲のフロアーを眺めても男性店員は僕1人だけだったし、客からは奇妙なハウスマヌカンがショップにいるなあと、不思議な印象を与えたていたのかもしれない。知り合いから人手が足りないから、ある一定の期間だけ店頭に立ってほしいと催促された。はじめはもちろん乗り気ではなかった。でもお金があっての世の中。ある程度のお金が必要であったし生計を保持しつづけなくてはならない立場に追い込まれていた僕にとって、考える猶予は与えられていなかった。知人が提示した時給は高待遇。当時は魅力的なものだったので、1日だけ悩んで依頼を受けることになった。
僕が働く場所となった婦人服売場は巨大な繁華街が犇めくファッションビルに店を構えていた。フロアー全体は低価格路線のブランドが殆どで、働いていた売場も二束三文で地道に売上を積んでいくショップでもあった。薄いパーテーションで区切られた空間は異様で、バックヤードさえも混沌としていた。
ハイエンドなブランドをセレクトしているショップとは売り方も展開の仕方も異なっているし接客のアプローチだって異業種にみえる。リテーラーというよりはむしろ肉体労働だし、朝から晩まで売場に立てば、まるで土方をしているような疲労の蓄積を感じることもある。
自分が呑み込まれてしまうような大きな繁華街。誰でも知る大都市と例えれば客層は容易に想像できる。巨大な繁華街に飲み込まれるように隣接するファッションビルに溶け込むのは想像以上に困難を極めた。
兎にも角にも客のファッションに対する感度は低かった。有名な繁華街となれば客層は日本人ばかりではない。特にいかがわしいお店が乱立している立地でもあるので客層のガラは悪いしモラルも希薄。もちろんファミリーや中高年の客は稀だった。特に大半の来店者はアジア系の集団で、彼らが奇声を上げながら店を横断すれば、台風が過ぎ去った後のように店頭は荒れ、正常な状態に店を復旧させる作業に時間を割かなければならなかった。
お店を整理するのは骨が折れる作業だし、売上が伸びなければ無駄な時間を割いたことになるし誰も得はしない。ビジネスとは損得勘定を頭の片隅に置いて第一歩がはじまるわけだから、モラルのへったくれもない訪問者が来店する度にスタッフは苛立っていた。
僕は更に面倒な案件を何故か任されていた。売場のスタッフで男の店員は僕1人。まわりは皆若い女性スタッフ。アルバイトであったり派遣会社から売場を紹介され労働している非正規のスタッフしかいない。いくら店頭の責任者である店長が産休で離職しているからといえ、売場を非正規雇用で賄うのはいかがなものかと懐疑的な思いに駆られた。
何故、僕がクレーマー担当的なポジションを任されるたのか。トラブルのトリガーを引いた当事者でもないのに、他のスタッフが客の逆鱗に触れる接客をしたら、僕が興奮した客を宥めながら仲裁に入るようにしていた。僕はひたすら相手の罵詈雑言を受け止め、ひたすら頭を下げるのが1日の大半を占めていた。特に大繁華街だから癖が強い客ばかりで僕の実家がある横浜とは違い難敵ばかりだ。でも僕のような男性スタッフが何故か婦人服売場にいて、低姿勢で宥めていたら、客は辛辣なクレームを並べるだけ並べ、清々したのか最後は笑顔で売場を後にしてくる。それをビジネスライクで続けていくと、何だか他人の罵声を浴び続けても対して何も感じなくなってしまった。
客の雑言を「ある種の言葉」に変換してしまえば、それはまるでバックグラウンドミュージックでも聞いているような感覚に陥る。僕は打たれ続けても倒れないパンチドランカーにでもなったように客の罵声を浴び続け、それでもテクニカルノックアウトをすることもなくやり遂げていた。一度だけ同じ客にテナントで6時間ぐらい罵声を喰らい続けたこともある。それでも僕はバックグラウンドミュージックに置き換えてやり過ごしてしまったから、ああ天職だなあと思ってしまう自分が作り上げられてしまった。
しかし生身の人間であることはかわりはない。僕は辛辣なクレームをソフトに吸収する特殊な壁ではない。ちゃんと血が通った人間だし、たまたま壁に「擬態化」しているだけで、その場の空気が変わることを、辛抱強く耐えていただけに過ぎない。いくら擬態しても人間には常に五感が働いている。特に聴覚がフルに働くわけだから、バックグラウンドミュージックをかき分けて響く暴言はアレルギー物質が蓄積されるように身体にたまっていくこともある。自分では自覚症状はなかったけど、小さなトラウマを抱えてしまったなあと、日常生活を送る上で思い当たる節をならべていたら、これは職業病なんじゃないかって考えてこんでしまうことも多々あった。
そんな過酷な売場で日夜クレーマー漬けになっていた僕だけど楽しみが無かったというわけではない。一縷だけど小さな楽しみはいくつかあった。繁華街が大都市であるが故に、たまに嬉しい来客も訪れる。今ではTV等で有名になったドラッククイーンと仲良くなってお尻を触られたり、若い頃お世話になったAV女優さんからレイバンのティアドロップをプレゼントされることもあった。今はテレビでみなくなったけど奇抜な直木賞作家とも会食することもできた。まあファッションビルの周りには、グレーな感じの店舗が乱立しているから、そういう類のお客は稀ではなかったけど、感じの良い人に限ってそういう業界に属していた人が何故か多かったのを覚えている。律儀だし丁寧だし深い情があったし、僕が冴えない表情をしていれば、洞察力が鋭い方たちだから話を逆に聞いてくれることも何度かあった。そういう業界の方にたまに励まされているからこそ、あの仕事を続けられたんだなって自負できる。
人間は人間によって傷を負うが、傷を修復させるためにはやはり人間の力を借りなくてはならない。特殊な自浄能力なんて兼ね備えているわけではないし、特にメンタルな部分を修復するには、持ちつ持たれるの関係、人の些細な言葉やありがたみが一番の万能薬だしね。そういう業界の来店は僕の心の拠り所でもあった。
その心の拠り所に春菜ももちろん含まれていた。
春菜はお店にとってタリズマンだった。彼女がお店に来ると、実際週に3回ぐらい来店するんだけど、そのときばかりは他のスタッフのテンションがあがる。あがると同時に不思議と売上があがる。何故、彼女が来店すると売上があがり、予算100%に達するのか不思議で今となっても解明できない。春菜はスタッフから神客とよばれ、お店にとってかけがえのない顧客だった。もちろん接客するのは殆ど僕だった。彼女は一気に商品を大人買いするのではなく、毎日そのときの容姿、着用しているアイテムと相性の良いアイテムをピックアップし、レイアードを気にして1,2点アイテムを購入していく。2点購入すれば更に20%オフ的なサービスがお店に存在するから、彼女からの利益は大きく期待できなかったけど、それでも全体を通すと必ず予算超えしているわけだから、目に見えない不思議な力が働いているのではないかって錯覚してしまうこともある。
春菜は特にルックスが良いわけではなかった。少し派手な20代後半の女性で、タリズマンだからと言って個性的な顔立ちをしているわけではなかった。街ですれ違っても彼女に気がつくかわからない。特に大都市の繁華街なら間違いなく素通りしてしまうだろう。それぐらい見た目は特徴的ではなかった。敢えて特徴を上げるとすれば陶器のように肌が白かった。夏場でも薄着をすることは絶対にしないし、必ず長袖のアウターを羽織っていたから紫外線を気にしていたのだろう。
そんなある日、たまたま僕の休憩と春菜の来店時間が重なることがあった。僕と春菜の関係はあくまでも店員と客という割り切ったものだけど、彼女にならお茶でもしようと誘われれば、お店の売上を考えて邪険に断ることもできなかった。まあ春菜は人間としても女性としても客としてもそれなりのマナーがあったし、罵詈雑言を並べるような客ではないのでたぶん大丈夫だろうと軽く思ってしまったのが僕の落ち度でもあった。それが重箱の隅を楊枝でほじくる様な話に巻き込まれる序章だった。
春菜はオープンな気質なので自分が「箱ヘル嬢」であることを包み隠さず教えてくれた。「箱ヘル嬢」とは「店舗型のファッションヘルス嬢」のまたの呼び方でもある。日々、店舗に待機し、欲望を隠しきれない男性客を性器で癒やし続ける。ある意味僕なんかよりも過酷な職業だ。相手は裸の男性だし、それも大半が見ず知らずの他人だから、とてつもない恐怖と日々戦っているのは容易に想像できる。でも春菜はそこまで自分の商売に対して不満を述べていなかったし、まあ愚痴をこぼす様なことは無くもなかったが、常に脳天気で天真爛漫な性格が魅力的に見えた。
もちろん「春菜」は源氏名だ。僕はいまだに彼女の本名なんて知らないし、彼女がどこからこの街にやってきて、どのような家に住み、どのような生活を送っているのか、そういう事実なんてどうでも良かったし自分から検索するようなことは一切しなかった。僕はただ喫茶店で春菜が吸うメンソールのタバコの煙を嗅覚で感じながら聞き手に徹するのがいつもの光景だった。
ただ僕は一度だけ
「君のような生業の人がいるからこそ社会の秩序は守られている。性犯罪の温床が増えるのを君たちが未然に防いでる。もし君のような人たちがいなかったら、もっと治安は悪くなる一方だしね。だから人としてリスペクトしているし、もちろん立派な女性だなと感心している」と、そんな安っぽいテレビのコメンテーターがいうような台詞を冗談半分で言ったつもりだったけど、春菜の表情は客の顔ではなく女の顔になっていた。
春菜はショルダーバッグから1枚のメモ書きを取り出し、そこにハイフンを交えた電話番号を書いた。それを僕に渡すと、喫茶店のテーブルの下で、彼女は僕の足を軽く踏んだ。
「あなたはよくやるわ。あんな仕事、うちには到底できない。ほんとようやるわ。わたしがあなたなら重度の難聴になって、精神に異常をきたすわ。メンヘラになって実家に戻りたくなる。たぶん夢の中まで客の悪口が聞こえてくるとおもうし、飼っている犬の鳴き声さえ客の悪口に聞こえてくるとおもうわ」
僕は心のなかで、いやいや、あなたの職業の方が過酷だし、トラブルが合ったら難聴より酷い目に遭うだろうと、つぶやいた。うちが一人称だった春菜。感情的になっていたので少しばかり方言が混じっていた。たぶんイントネーションから考えれば西の方の人間かもしれない。そういう微妙なところから人との縁は広がるものだ。膝を交えてコーヒーを啜りながら会話が弾めば、聞かなくても分かってくる事実もある。
「あなたにも癒やしが必要だわ。それを欲しているように思える。電話して。私で良ければ相手するわ」
そう云われたので僕は翌日、仕事を終えてから、喧騒で揺れる繁華街にある公衆電話の受話器を取った。
「お電話ありがとうございます」
受話器の向こうから聞こえてくるのは若い男性の声だった。小気味よい言葉を発していて、嫌味は感じないし、とても清々しい気持ちにさせる。
「春菜さんはいらっしゃいますか?」
「もちろんです。今日はラストまで出勤しています。ご予約ですか。今なら最短で21時にご案内できます」
「では、それでお願いします」
「ご新規なら40分コースと50分コース今なら1000円引きでご案内できます。更に無料でいくつかオプションをつけることも可能ですが、どうなされますか?」
僕は40分コース1000円引きノーオプションで春菜を指名することになった。
春菜が性的サービスをしているお店は僕が働いていたファッションビルからそう遠くはなかった。まあえらく早歩きになっていた僕だけにあっという間に彼女が在籍している店舗に到着した。狭い裏路地といったところか。スキマに更にお店があるぐらい、そういう類のお店が乱立していて、息苦しさを覚える。春菜のいるお店は雑居ビルの4Fにある。そのビルの周りには客引きのようなボーイが行き交う男性に笑顔を振りまいているが、僕は彼らと視線を合わすこと無く前だけを見ていた。まっすぐと前だけを見据え、周りをシャッタアウトして雑居ビルのエレベーターに乗り込む。
お店につくと先程の電話対応してくれた男性スタッフが僕を待合室に通してくれた。お金は先払いで、彼からの遊ぶ内容の説明を簡単にレクチャーされてから、待合室にあるソファーに腰を下ろした。
その待合室には4つほどの個人がけのソファーがあった。部屋の真ん中にスツールのようなテーブルがあって灰皿が置かれていた。何故か煙草の臭いはなかった。清潔なおしぼりと爪切りがおいてあったので、僕は熱くなった頬をまずおしぼりで吹いた。トイレで用を足すと再びソファーに腰を下ろして伸びていた爪を切った。爪を綺麗に切りそろえて先端をヤスリで滑らかにすると幾分落ち着くことができた。落ち着くことができれば、周囲を冷静に観察することが出来る。その部屋にいるのは僕1人だけで癒やしを求めて来店している客は誰もいなかった。何となくお店は閑散としていたし、人が行き交う繁華街が直ぐ目の前にあるとは思えなかった。
すると1つ2つ妙な違和感を感じた。僕が座っていたソファーの目の前の壁が一面鏡になっていた。もちろんそこに写っていたのはソファーに腰を下ろす僕の姿だ。ただ、その鏡の壁の前に何故か観葉植物が無造作に2つ、かぶさるように置かれていて、これでは全身をチェックできないなあと思った。僕は立ち上がって鏡を覗いてみるが、やはり最初の直感どおり僕の全身はその観葉植物が邪魔して確認することができない。そのとき奇妙な気配を感じたのは確かだった。その鏡が幾分揺れているような気がした。たぶん目の錯覚だと思うけど、鏡の向こう側に誰かがいるような気配を感じることができた。僕は鏡の向こう側を覗くことが出来ないが、向こうにいる誰かは僕が待合室で何をしているのか容易に確認することが出来るだろう。僕の研ぎ澄まされた直感は間違いではなかった。
「流石アパレル店員ね。身だしなみは気になるのね。あんな丁寧に爪を切ってヤスリにかける人はじめてみたわ」
先程の店員に春菜が待機している小さな部屋に案内された。その部屋は3畳ぐらいの小部屋で狭い。二人入ったらギュウギュウになりそうなぐらい狭いシャワー室も設置されていた。部屋は3面鏡張りだった。ソファーベットのようなシートに春菜は腰掛けていた。
「気づいたでしょ」
春菜は弱々しい声で言った。普段厚着している春菜は下着姿に近い格好で僕を迎え入れた。僕は春菜がいつものように覇気がないことに直ぐ気がついた。春菜は肩辺りにスティグマなタトゥーを掘ってある。はじめはその淫靡なタトゥーが気になっていたが、更に春菜の身体に異変があることに気がついた。春菜の陶器のような白い肌がアザだらけで、いつもよりも顔の化粧は分厚かった。
「昨日ね。帰宅した旦那にボコボコに殴られたのよ。それも突然ね。うちの旦那頭がイカれているのよ。あなたと同じ小売業なのに客とよく口喧嘩になって何度も職場をコロコロ変えている」
「とても不思議な人。いや人間ではないわ。自分の本能が正義だと勘違いしている痛い奴。旦那ね。いきなりうちのことドツイてきたのよ。うちは何もやってない。だって会話さえしていないのに殴られるんだもん。流石に痛みなんて感じなかったわ。心のダメージは深刻だったけど、不思議と暴力に痛みを覚えなかった」
僕は言葉がなかった。だまって春菜の横に座って目の前にあるシャワー室を眺めていた。
「シャワーでも浴びる?仕事の汚れ洗い流したいでしょ、気分もスッキリする」
「いや。そんな気分にはなれない」
僕がそういうと春菜は自分の財布を小脇の引き出しから取り出した。40分コースと同額の金額を僕に差し出した。
「うけとることはできない。だって君のポケットマネーだろ」
僕は頑なにお金を受け取るのを拒むと春菜は諦めて財布にお金を戻した。
「あなたはそこそこのイケメンね。うちの旦那とは大違い。本当にキモい顔していて背も低い。それなのに女に不自由はしていない。それなのにあなたはいつもひとりぼっちね。身なりもきれいだし背もそれなりに高いし性格も大らかで優しいし、聞き上手なのにもてないのね」
「うちの旦那はオラオラアピールが人一倍に強いの。性欲も輪をかけるように強い。あなたとは真逆の人間ね。勝てば官軍って思うやつで、結果さえ出せば何やっても正義だと勘違いしているやつ。ああ。あなたの様な人と何故恋に落ちないで、あんな奴と結ばれることになったのか。今では猛省しているし、自分の性格を恨むことしか出来ないわ」
「僕ができることならなんでもする」
「あなたは本当に優しいのね。何度も言ったけど、いつでも擬態化できるのは素晴らしい能力よ。人に合わせようとする態度は好印象。でもそれってとても疲れることじゃないの。うちの旦那は全く溶け込めないタイプね。猛獣がきたって、天敵がきたって、隠れること無くオラオラアピールすると思うわ。弱いくせに直ぐ喧嘩売りたがる。本当に良識の無いクズ野郎。でも、ああいうタイプは疲れを感じないから、次の日になればケロッと立ち直る」
「今日は自宅に帰れるのか?」
「帰れるよ。だって旦那はもう帰ってこない。帰ることがない出張に行くって置き手紙を置いて行方をくらました。たぶん自宅に戻っても彼の姿はないだろう」
「じゃあ、安心して自宅にもどれるね」
「そうとはいかない。旦那を探さなくてはならない」
「なぜ?」
「あの人の子供がお腹の中にいる」
「じゃあ探すの手伝う。行き先、何か手がかりになるような」
「本当?助かるわ。この生まれてくる子もあなたのような子に育って欲しい、そうね。少なくとも旦那にだけは似てほしくない。行き先?わかるわ。だってその置き手紙に行先を書いて出てったから。あいつねそういう人間なんだよ。よくいうかまってちゃんね。行方をくらますなら静かに居場所も告げずに出て行けって思うでしょ、そんな男がこれから親になるんだから、とても不思議な人生ね」
「じゃあ付き合うから旦那をさがしにいこう。それで旦那は何処へ」
「富士の樹海に行くと言って出てった。たぶんもし本当なら、生まれてくる子供にあなたのパパはあなたが生まれてきた年に自殺しましただなんて言えないわ。だから探し出さなくてはならない」
僕はやれやれだなと思った。春菜が言う擬態化し、巻き込まれないように徹底としていたはずなのに、再びわけがわからない話に巻き込まれた。それもとてもバカげた話だ。こんな夜遅くからスポーツカーで走り回ったって、あの大海原のような樹海から人を探し出すだなんて雲をつかむような話だ。そんなこと不可能に近い。僕は警察に事の真相を全て委ねることを提案したが、春菜もどこか頑なになっていて僕の合理的な説得に耳を傾けなかった。こうと思えばこうと進む気性であることはこのときわかった。たぶんだけど、どんなに良識のない旦那であっても「うちが好きになった男だ」と断言すれば相手から捨てられなければそうあり続けるタイプなのかもしれない。
それと春菜の旦那が実際に富士の樹海にいったことも本当なのか疑問だし、あとあとわかったことだけど自宅近辺の漫画喫茶で暇潰していたという事実も確認できた。
僕は重い瞼を動かして眠りに落ちないようにしていた。春菜が運転するマツダ「ロードスター」はシフトが切り替わる度に微妙な反応を繰り返すから、その変化が起きる度に睡魔を誘ってくる。もう体力の限界が近づいてきたなと自分でもわかるぐらい衰弱しているのが自分でもわかった。春菜は運転しながら何かを喋っているけど、何を話しているのかわからない。そう声が聞こえてこないから意識が飛び始めてきたのだろう。僕はあれだけ喉が乾いていたことを忘れていた。もうどうでもよくなるぐらいの睡魔が襲ってきたし、我慢の限界だった。完全に春菜の声が聞こえなくなったとき、奇妙な光が揺れているのが視界に入ってきた。
その光はぼんやりと暗闇に揺れている。僕はとうとう夢の中へおちてしまったのか。それともこの漆黒の樹海を彷徨う魂、火の玉のようなものをみてしまったのか。少しばかり恐怖心を抱いていて、自分が喉をかわいていたことを思い出す。僕はまだ眠っている様子ではなかった。運転している春菜も何も語っていないことがわかった。そのとき、そのぼんやりと揺れている光が僕の目の前まで近づいてきて奇声のような音が樹海の道路に響き渡った。
僕と春菜の「樹海ドライブデート」が終わる瞬間だった。
僕は驚いて車内から外へ飛び出した。春菜のマツダ「ロードスター」が他の車を救助しているレッカー車につっこんだ。幸いに怪我人はいなかったし、もちろん僕も無傷であった。春菜も体力の限界が近づいていたようで居眠り運転をしていたようだ。ほとんどアクセルを踏んでいなかったので、遅いスピードでレッカー車につっこんだのが幸いだった。それほど大きな事故には繋がらなかったので事故に巻き込まれた人間は全て無傷だった。それでもぶつかりどころがわるかったのか、春菜の愛車でもあるマツダ「ロードスター」だけは廃車となった。そして春菜は愛車と同じように廃人と化した旦那と、旦那に似た子供といまでも生活している。
春菜は今でも「家庭」を守る主として性風俗を生業にしている。たまに彼女が働いている繁華街の近くに足を運ぶけど、僕は会いに行こうだなんて一度も思うことはなかった。
春菜は店にとって最高のタリズマンだった。
でも僕にとって彼女は周囲をズブズブに巻き込む蟻地獄のような存在かもしれない。はじめは良客だと思っていた。いや。客として割り切れば今でもしっかりとした良客である事は間違いない。
春菜は僕が擬態化するのを得意だから羨ましいと言っていた。でも僕は擬態化することが出来ない気性である。
ふとその場にその場の空気に馴染むことに尽力し、自分の存在をうまく消したとしても、結局は様々な数奇な話に巻き込まれていく。たぶん擬態化しても自分が背負っている負の部分を隠しきれないのであろう。
マジックミラーの向こう側では、僕が何を考え何を内包しているのか全てお見通しで、僕が実戦している擬態化はトリックが簡単に見破れる手品のようなものだった。
春菜から教えてもらったことは、もう周囲に、自らの意志で染まっていこうと望まないで生きていくことだ。
少しぐらいアピール男子になったって周囲をざわつかせることはないだろう。
二度とつづかない


