76話 奪う必要はない

 

 

 

 婦人警察官は、キスしていた唇を離すと、ハッと我に返ったらしかった。

 

 壁に背中をぶつけるまで、後退(あとずさ)った。

 

 

 大きく目を見開いて、僕を見つめながら、自分の唇に触れている。 残っている僕の唇の感触を、確認しているかのようだ。

 

・・・私、セクハラした? それとも、パワハラかしら?

 

「いいえ」

 

 嘘発見器の針が、振れている。

 

 婦人警察官は、針が振れるのを、見逃さなかった。

 

悪かったわ。 つい、あなたと議論していたら、キスしちゃったのよ。 興奮しちゃったのかしら・・・

 

「僕が、嫌(いや)なんてことはないです。 嬉しいですよ。 幸せです」

 

だったら、どうして針は振れたのよ?

 

「Yukiが、このことを知ったら、嫌がるかなって思ったんです」

 

バイクでしょ? バイクが嫌がるの?

 

 僕は、おずおずとうなずいた。 馬鹿にされるのは承知(しょうち)の上だ。

 

「Yukiは、僕を、この夢から帰してくれようとして、ずっと走って来てくれたんですよ」

 

あなたは、本と言ったり、夢と言ったり、どっちなの?

 

「本も、夢も、現実も、同じなんですよ。 

 違うと思うことが、僕らを迷子にしてしまうんです」

 

私は、迷子じゃないわ

 

「人生で、迷うことはないですか?」

 

彼氏ができないから、不安になるだけよ

 

 Yukiが根気よく教えてくれたお陰で、今では、この婦人警察官の不安が、手に取るようにわかる。

 

「どんな不安も、結局は、無(む)になることへの不安なんですよ」

 

私は、彼氏が欲しいだけよ。

 無になるなんて、考えたこともないわ

 

「たとえ彼氏ができても、不安はなくならないんです。

 形を変えて、ずっとあなたに、つきまといますよ」

 

まるで悪質なストーカーね

 

「犯人は、無(む)なんです」

 

それじゃ、お手上げだわ。 私たちの管轄外(かんかつがい)だもの

 

「それが、捕まえられるんですよ」

 

どうやって?

 

「無(む)は、どこにも無(な)いんです。

 もし、在(あ)れば、僕らは無(な)いんです。 

 無(む)が在(あ)れば、無(む)しかないんですから」

 

犯人は、いないってこと?

 

「いないんです」

 

やっぱり捕まえられないんじゃないの

 

「でも、犯人がいないんだから、不安になる必要もないんですよ」

 

じゃ、逮捕する必要もないのね?

 

 僕は、感動しながら、うなずいた。

 

「だから、僕らは、絶対に無くならないんですよ。 

 ひとつになるだけなんです。 

 だから、どんなことになろうとも、愛されていると、信じたらいいんです」

 

どんなことになろうとも?

 

「守ろうとすることが、悪夢を生むんです。 分離(ぶんり)を生むんです」

 

そんなことを言ったら、私たち、警察官もいらなくなるじゃないの。 

 犯罪に遭(あ)ったら、私たちを呼ばないの?

 

「でも、良くなろうとか、守ろうとか、それらは、不安から生まれるんです。 

 不安から生まれるものは、結局、良くないものなんですよ」

 

だったら、私は、あなたが助けを求めても、助けてあげないわよ。 いいの?

 

「壊れることが、愛されることなんです。 

 でも、愛されていると、信じられたら、良いことが起こるんです。 

 むしろ、愛されることが、起こるんです」

 

そんなこと、本気で、信じてるの?

 

「でも、これが、きっと夢からの帰り道ですよ。 

 これ以外は、もっと道に迷うだけです」

 

壊されたいって、願う人がいると思うの?

 

「でも、壊れない人は、いませんよ。

 存在は、壊れるものだって、僕のバイクが言っていました。 

 でも、それが愛されていると思えるだけでも、救いになりませんか?」

 

じゃ、私が、あなたを奪っても、あなたのバイクは、愛されているって思うんじゃないの?

 

「あなたは、奪う必要なんかないんです。

 あなただって、愛されているんですから」

 

 婦人警察官は、呆(あき)れると、笑いかけて、溜め息をついた。

 

「・・・・・愛されていないから、彼氏がいないんじゃないの

 

「それは、結局、無への怖れのせいですよ」

 

だったら、彼氏がいる女の子は、無への怖れがないって言うの?

 

「たとえ彼氏がいても、愛されているかどうか、わからないじゃないですか」

 

そんなことより、まず彼氏がいなかったら、愛されないでしょ?

 

「『愛されている』って信じられたら、彼氏はできますよ。 

 そのときの彼氏は、あなたを愛するために現れた彼氏ですよ」

 

どうして、そんなことが、断言できるのよ? 

 あなたは、『愛されている』って信じて、彼女が現れたの? 

 現れたのは、バイクだけなんじゃないの?」 

 

 僕も、ハッとした。 

 

 僕が、『愛されている』と信じることができたのは、この取り調べを受けてからだ。

 

 この婦人警察官に説明しようとして、やっと、Yukiの言っていたことが理解できるようになったのだ。

 

 そして、『愛されている』と心の中で、唱(とな)えた。

 

 唱えていたら、この婦人警察官にキスされたのだ。

 

「『愛されている』と信じたら、あなたにキスされたんです。 

 信じたから、あなたが現れたのかもしれないです」

 

 婦人警察官は、もっと、びっくりしている。

 

え?・・・・・・私?

 

「婦警さんがキスしてくれたのは、僕が『愛されている』って信じてからなんですよ」

 

・・・・・そう言われてみると、なんとなく、あなたは、私を受け入れてくれているって、感じがしたわ。

 自分が受け入れられているって感じられたのって、初めてかもしれない。 

 それで、つい、キスしちゃったのよ

 

 婦人警察官は、瞬(まばた)きを繰り返して、顔を赧(あか)らめた。

 

私も、『愛されている』って信じてみようかしら・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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