「タトゥーを入れている奴はバカだ」

そんな刺激的な言葉が話題になっています。

長年、彫り師として多くの人にタトゥーを入れてきた人物が、自身の経験をもとに、タトゥーを入れている人たちについて厳しい言葉を投げかけたことがきっかけです。

もちろん、「タトゥーを入れている人の99%がバカ」という数字を、客観的な事実として証明することはできません。

タトゥーを入れる理由は人それぞれです。

大切な人を忘れないため。

人生の節目を刻むため。

自分の文化や価値観を表現するため。

単純にデザインが好きだから。

さまざまな理由があります。

だから、タトゥーを入れているというだけで、その人の人格や知性を判断することはできません。

しかし、この問題を「タトゥーの是非」という狭い話から一度離れて考えてみると、非常に興味深い人間の心理が見えてきます。

それは、

「人と違いたい」という欲求と、「人から認められたい」という欲求の矛盾です。



人と違いたい

人間には、誰にでも「自分は特別な存在でありたい」という気持ちがあります。

他人とは違う自分でいたい。

自分らしく生きたい。

誰かの真似ではなく、自分だけの人生を歩みたい。

これは決して悪いことではありません。

むしろ、自分の人生を生きるためには大切な感情です。

しかし、ここには一つの落とし穴があります。

「人と違うこと」を外見で表現しようとすると、その瞬間に、それが「人と違うための記号」になってしまうことです。



「人と違う」が流行になった瞬間、それは「人と同じ」になる

例えば、誰も着ていない服を着れば、人と違います。

しかし、その服を着る人が100万人になったらどうでしょうか。

それはもう「人と違う服」ではありません。

「人と違うこと」そのものが流行になってしまえば、それは新しい「普通」になります。

タトゥーにも、同じような現象が起こります。

「普通の人とは違う自分を表現したい」

「既存の価値観に反抗したい」

「自分は他人とは違う」

そう思ってタトゥーを入れたとしても、街を歩けば同じようなタトゥーを入れている人がたくさんいる。

似たようなデザイン。

似たようなファッション。

似たような価値観。

似たような仲間。

そうなれば、最初に求めていた「人と違う自分」というものが、いつの間にか「人と同じ集団」の中に入っていることがあります。

これは非常に皮肉なことです。

「みんなと違いたい」という人たちが集まって、「みんなと同じような集団」を作ってしまう。

人間には、そんな不思議な性質があります。



「反逆」さえも、商品になる

かつて社会に対する反抗の象徴だったものが、時代とともにファッションになり、商品になり、文化になっていくことがあります。

反抗するためのスタイルが確立される。

反抗するための服装がある。

反抗するための音楽がある。

反抗するための言葉がある。

そして、それを同じように身につけた人たちが集まる。

すると、

反逆するために、決められたスタイルを選ぶ

という奇妙な現象が起こります。

「俺は誰にも縛られない」

と言いながら、同じ価値観の仲間の中にいる。

「俺は人と違う」

と言いながら、同じような格好をしている。

ここには、人間の「個性」と「所属」の矛盾があります。



人間は「特別になりたい」と同時に「仲間が欲しい」

人間には二つの欲求があります。

一つは、

「自分は特別な存在でありたい」

という欲求。

もう一つは、

「誰かとつながっていたい」

という欲求です。

この二つは、必ずしも一致しません。

「自分は人とは違う」と思いたい。

しかし、一人になるのは嫌だ。

だから「自分と同じように人と違うことを望む人たち」とつながる。

そして、いつの間にか「人と違う人たちの中の一人」になる。

これはタトゥーだけではありません。

ファッションでも、音楽でも、スポーツでも、政治でも、宗教でも、SNSでも同じことが起こります。

「みんなとは違う」というアイデンティティを持つために、別の「みんな」に所属する。

人間は、個性的でありたいと思いながら、同時に集団にも所属したい生き物なのです。



では、なぜ批判されると怒るのか

ここからが、さらに重要な問題です。

もし、

「自分が好きだからタトゥーを入れた」

というのであれば、他人から、

「ダサい」

「嫌いだ」

「そんなものを入れるなんてバカだ」

と言われても、

「そう思う人もいるよね。でも自分は気に入っている」

で終わらせることができます。

それでいいはずです。

なぜなら、自分の価値を他人の評価に預けていないからです。

ところが、他人の言葉に激しく怒り、相手を攻撃し、撤回を求め、SNSで何度も反論する。

そこまでいくと、別の問題が見えてきます。

それは、

「自分の選択を、自分だけで肯定できているのだろうか」

という問題です。



「自分の選択」と「他人からの承認」は別物

人間には、自分が選択したものを正しいと思いたい心理があります。

大きな決断をした。

簡単には取り消せない。

そこへ誰かから、

「その選択は間違っている」

と言われる。

すると、自分の中に不快感が生まれます。

「自分は正しいと思っている」

のに、

「他人は間違っていると言っている」。

この矛盾を解消するために、人間は相手を否定したくなります。

「相手がおかしい」

「相手が古い」

「相手が差別的だ」

「相手の考え方が間違っている」

と考えることで、自分の選択を守ろうとするのです。

もちろん、本当に不当な差別に対して声を上げることは必要です。

しかし、

自分にとって不快な評価と、不当な差別は同じではありません。

ここを区別することが重要です。



「自分の自由」と「他人の自由」は同じではない

自分の身体をどうするかは、自分で決める。

それは自由です。

しかし、その選択をした結果、社会の中でどう見られるかまで、自分で完全に決めることはできません。

タトゥーを入れる自由がある。

同時に、タトゥーを好ましく思わない人にも自由があります。

施設には施設のルールがあります。

仕事には仕事の価値観があります。

他人には他人の感覚があります。

もちろん、そのルールや価値観が合理的なのか、時代に合っているのかは議論していい。

しかし、

「自分には選択する自由がある」

ことと、

「社会はその選択を必ず肯定しなければならない」

ことは違います。

ここを受け入れられるかどうかが、本当の意味での「覚悟」なのではないでしょうか。



本当の覚悟とは、選択だけではない

何かを選ぶことは簡単です。

難しいのは、

その選択によって生じる結果まで引き受けることです。

人と違う生き方を選ぶなら、

人と違う目で見られる可能性も受け入れる。

周囲から理解されない可能性も受け入れる。

批判される可能性も受け入れる。

場合によっては、不便になることも受け入れる。

それでも、

「自分はこの生き方を選ぶ」

と言える。

そこまでできて、初めて「覚悟」と呼べるのではないでしょうか。



本当の個性は、身体ではなく行動に現れる

ここで、もっと根本的なことを考えてみたいと思います。

本当の個性とは、一体何でしょうか。

奇抜な服でしょうか。

珍しい髪型でしょうか。

身体に入れたデザインでしょうか。

高級車でしょうか。

高価なブランド品でしょうか。

もちろん、それらも自己表現の一つです。

しかし、それだけで人間そのものが個性的になるわけではありません。

本当の個性は、

その人の考え方、判断、言葉、行動、生き方に現れます。

誰も見ていないところで何をするのか。

損をしてでも約束を守るのか。

誰にも評価されなくても努力するのか。

権力者の前でも態度を変えないのか。

困っている人を見たときにどうするのか。

お金にならなくても、自分が大切だと思うことを続けるのか。

そういうところに、その人の人格が現れます。



「俺は強い」と言う人より、強さを見せない人

本当に強い人は、

「俺は強い」

と何度も言う必要がありません。

本当に信念がある人は、

「俺には信念がある」

と叫ぶ必要もありません。

本当に自信がある人は、

他人から認めてもらうために必死になる必要もありません。

なぜなら、

自分の価値を、自分自身が知っているからです。

他人から否定されても、

「あなたはそう思うのですね」

と受け止められる。

それでも自分の道を歩く。

それが本当の強さなのかもしれません。



心に刻むのか、身体に刻むのか

タトゥーには、「何かを刻む」という意味があります。

しかし、本当に大切なものは、必ずしも身体に刻む必要はありません。

大切な人への感謝。

人生で受けた恩。

忘れたくない出来事。

自分が守りたい信念。

それらは、誰にも見えない心の中に刻むこともできます。

そして、心に刻まれたものは、行動に現れます。

「感謝」と身体に刻まなくても、人に感謝できる。

「愛」と身体に刻まなくても、人を愛することができる。

「強さ」と身体に刻まなくても、困難から逃げない人間になることができる。

「自由」と身体に刻まなくても、自分の人生を自分で選ぶことができる。

結局、

何を身体に刻んだかより、何を人生に刻んだかのほうが重要なのではないでしょうか。



タトゥーだけの話ではない

ここまで考えると、この問題はタトゥーだけの話ではないことが分かります。

人間は誰でも、

「自分は特別だと思われたい」

「認めてもらいたい」

「馬鹿にされたくない」

「人から評価されたい」

という欲求を持っています。

だから、高級な時計を身につける。

高級車に乗る。

ブランド品を買う。

SNSで成功を見せる。

学歴や肩書きを誇る。

自分の政治的立場を主張する。

「自分は他人とは違う」とアピールする。

しかし、それらがなくなったとき、一体何が残るのでしょうか。

服を脱いだとき。

車を降りたとき。

肩書きを失ったとき。

SNSのフォロワーがいなくなったとき。

誰からも褒められなくなったとき。

それでも、

「自分はこれでいい」

と言えるでしょうか。



本当の個性は、誰かに見せるものではない

個性とは、他人との差を一生懸命に作ることではないのかもしれません。

自分が何を大切にするのか。

何を嫌うのか。

何を守るのか。

何を諦めないのか。

どんな人間でありたいのか。

それを自分自身で理解し、その価値観に沿って生きていく。

その結果として、

「あの人は他の人とは違う」

と周囲から見える。

これが、本当の個性なのではないでしょうか。

「人と違う」と言う必要がないほど、人と違う。

それが、本当の個性なのかもしれません。



他人から認められなくても、自分の人生を生きられるか

結局、人間にとって一番難しいのはここです。

他人から認められなくても、自分を肯定できるか。

批判されても、自分の信念を守れるか。

理解されなくても、自分の道を歩けるか。

そして、自分の選択によって生じた結果を、他人のせいにせず、自分で引き受けられるか。

これはタトゥーを入れている人だけの問題ではありません。

すべての人に問われている問題です。

人間は「人と違いたい」と願います。

同時に「人から認められたい」と願います。

この二つの欲求を抱えて生きています。

だからこそ、

「人と違うこと」よりも、「他人と違っていても、それを他人に認めてもらおうとしないこと」のほうが、はるかに難しい。

そして、

「自分らしさを見せること」よりも、「誰にも見せなくても、自分らしく生きること」のほうが、はるかに強い。

外見を変えることはできます。

言葉で自分を大きく見せることもできます。

しかし、人間の本質は、最終的には日々の行動に現れます。

何を身につけているかではなく、

何を信じ、何を選び、どう生きたのか。

そこに、その人の本当の個性と人格が刻まれていくのではないでしょうか。

身体に何かを刻むことより、

人生そのものに何を刻むのか。

そこにこそ、人間が一生をかけて考える価値のある問いがあるのだと思います。