人はなぜ、
欲望や快楽、支配や暴力の話ばかりを繰り返すようになるのでしょうか。

なぜ、そこから出られなかったのでしょうか。

それは能力や知能の問題ではありません。
多くの場合、心の発達がある地点で止まってしまった結果です。

人の心は、本来、成長とともに関心の軸を変えていきます。
生きることに慣れるにつれ、
快か不快から、優劣や承認へ、
そして意味や価値、他者との関係性へと移っていきます。

しかし、安心のない環境で育った心は、
その移行を経験できません。

常に緊張があり、
怒りや暴力が身近にあり、
感情を言葉にする余裕がなかった環境では、
人は考えることをやめていきます。

考えることは、安全ではなかったからです。

疑問を持てば否定され、
弱さを見せれば傷つけられ、
静かに感じるより、先に殴る方が生き残れたのです。

その中で学んだ世界観は、とても単純になります。

力を持つことです。
支配することです。
奪うことです。
快楽を得ることです。

それだけが、確かに「感じられる現実」でした。

教養や内省、抽象的な思考は、
その世界では役に立ちません。
むしろ危険ですらありました。

だから、人はそれらを見下し、嘲笑し、遠ざけます。
それは傲慢さではありません。
自己が壊れることを防ぐための、防衛です。

別の世界を知らなかったのです。
知らないものは、選択肢になりません。

仮に一瞬、別の価値観に触れたとしても、
そこへ進むには大きすぎる代償があります。

これまでの自分を否定し、
属してきた関係を手放し、
強さだと思っていたものが虚勢だったと認めることになります。

それは、変化ではなく、
自己解体に近い恐怖を伴います。

だから多くの人は、留まります。
同じ話を繰り返し、
同じ価値観を確認し続けます。

そこに安心があるからです。

一方で、そこから出られた人もいます。
その違いは、才能ではありません。

一度でも、
安心して話を聞いてもらえた経験です。
人として扱われた感覚です。
考えても壊れなかったという身体的な記憶です。

それがあるかどうかです。

人は一人では世界を移れません。
誰かが架けた小さな橋を渡って、初めて外を知ります。

橋がなければ、
外はただ怖く、冷たく、敵対的な場所に見えます。

だから、出られなかった人が悪いのではありません。
出るという発想すら、生まれなかっただけです。

それを理解すると、
怒りは静かな哀しみに変わります。

同時に、考えられる人が持つ責任も見えてきます。

理解することは、正当化ではありません。
距離を取ることも、必要な選択です。

ただ、見下さず、断罪せず、
「なぜそこに留まったのか」を想像することは、
誰かの世界に、初めて橋を架ける行為になります。

人は、
考えることで人になります。

そして、考えても壊れなかった人が、
次の静かな道を示していきます。

その積み重ねだけが、
この社会を、少しずつ変えていきます。