私たちは、日々たくさんの言葉に触れながら生きています。
ニュース、SNS、見出し、コメント、専門家の発言。
その中で「何が正しくて、何が間違っているのか」を判断しているつもりでいます。

けれど、実はその判断の多くは、
事実そのものではなく、「言葉の使われ方」によって左右されています。

この仕組みを説明する言葉に、フレーミングというものがあります。

フレーミングとは、
同じ内容であっても、どの言葉の枠で包むかによって、
受け取る人の感情や判断を無意識に誘導する技術のことです。

たとえば、
秩序を守る、という言葉があります。
これは本来、社会が成り立つために欠かせない、ごく当たり前の考え方です。

しかし、これを
「排外的だ」「息苦しい」「自由を奪う」
という言葉で包み直した瞬間、
秩序を守ること自体が、どこか悪い行為のように感じられてしまいます。

事実は変わっていません。
変わったのは、感情のラベルだけです。

国民を守る、という言葉も同じです。
どの国であっても、国家の役割は、まず自国民の安全と生活を守ることです。

けれどそれが、
「差別だ」「不平等だ」
という言葉と結びつけられると、
守ることそのものが、いけないことのように見えてきます。

ここで重要なのは、
その主張が正しいか間違っているか以前に、
「議論そのものが止まってしまう」という点です。

これが、フレーミングの最も強い力です。

人は、
差別、排外、危険、極端
こうした言葉を向けられると、
それ以上考える前に、距離を取ろうとします。

反論すること自体が、
「冷たい人」「攻撃的な人」と見られてしまうかもしれない。
そう感じた瞬間、思考は止まります。

これは、意見を否定する技術というより、
議論を始めさせないための技術です。

では、なぜこのような言葉の使い方が広がるのでしょうか。

一つには、人は複雑な話よりも、
善と悪、強者と弱者という単純な構図の方が理解しやすい、
という心理があります。

もう一つは、
誰が責任を持つのか、という問いを曖昧にできるからです。

秩序が乱れたとき、
治安が悪化したとき、
社会の負担が増えたとき。

本来なら、原因や仕組みを冷静に考える必要があります。
しかし、そこに
「その議論は危険だ」
「その考えは不寛容だ」
というフレームがかかると、
原因を考える前に、話題そのものが封じられてしまいます。

特に、善意を大切にする人ほど、
この仕組みに弱くなります。

誰かを傷つけたくない。
冷たい人だと思われたくない。
争いを生みたくない。

そう思う気持ちは、とても大切なものです。
でもその優しさが、
「考えることをやめる方向」に使われてしまうと、
知らないうちに、他人の言葉に判断を委ねることになります。

だから大切なのは、
強く主張することでも、誰かを否定することでもありません。

一度、立ち止まることです。

この言葉は、
事実を説明しているのか。
それとも、感情を誘導しているだけなのか。

これは価値判断なのか。
それとも、フレーミングではないか。

誰が、
どんな言葉で、
どんな議論を避けさせたいのか。

そう問い直すだけで、
私たちは思考停止から一歩離れることができます。

フレーミングに気づくことは、
誰かを疑うためではありません。

自分の考える力を、
自分の手に取り戻すための行為です。

秩序を大切にすること。
ルールを守ること。
誰かの生活を守ろうとすること。

それらは、本来、静かで、温かく、
人が安心して生きるための考え方です。

言葉の印象だけで、
それらが悪いものに見えてしまうとしたら、
それこそが、立ち止まって考えるべきサインなのだと思います。

考えることをやめない。
言葉を、そのまま飲み込まない。

それだけで、
社会の見え方は、少しずつ変わっていきます。