なぜだか心が動かない人がいます。
頭が良く、行動力があり、理路整然と正論を語ります。
成果もあり、社会的にも成功しています。
それなのに、どこか温度を感じません。
言葉は正しいのに、心に触れてこないのです。
この違和感は、嫉妬でも否定でもありません。
むしろ、理解しようとするところから生まれている感覚です。
多くの場合、こうした人たちは、子どもの頃から「認められる条件」を背負って生きてきました。
頑張った時だけ評価され、結果を出した時だけ安心できる環境にいました。
何もしない自分、弱い自分、迷う自分は、受け入れられなかったのです。
だから、勉強ができること、正解を出すこと、優れていることが、唯一の居場所になりました。
そこでは感情は必要ありませんでした。
共感よりも正しさが求められました。
気持ちよりも結果が重視されました。
そうやって、自分を守る術を身につけていったのです。
人の気持ちが分からないのではありません。
感じないようにしてきただけなのです。
感じてしまうと、傷つくからです。
迷ってしまうからです。
これまで築いてきた「強さ」が揺らいでしまうからです。
やがて大人になり、学歴や肩書、事業や成功が、その延長線上に現れます。
それは野心というより、「自分はここにいていい」という証明でした。
見返したい誰かがいたのかもしれません。
過去の自分に言い聞かせたかったのかもしれません。
けれど、結果を積み上げても、どこか満たされません。
なぜなら本当に欲しかったのは、評価ではなく、無条件で受け入れてもらう感覚だったからです。
このタイプの人が強く主張し、成果に執着するのは、傲慢さではありません。
自分の価値が崩れてしまうことへの、深い恐れなのです。
静かになると、不安が顔を出します。
だから、語り続けます。
証明し続けるのです。
一方で、聞く側が共感しきれないのは自然なことです。
そこに、人としての揺らぎや弱さ、迷いが見えないからです。
完璧な言葉は並んでいますが、感情が通ってきません。
人は正論では動きません。
人は、人の痛みや迷いに、自分を重ねる生き物です。
この違和感に気づける人は、少し違う場所に立っています。
成果よりも、関係性を大切にしています。
正しさよりも、誠実さを重んじています。
勝ち負けよりも、納得感を大切にしているのです。
だからこそ、派手な成功談に心が動きません。
羨ましさより、どこか哀しさを感じてしまいます。
それは優しさであり、同時に、人間を立体的に見てしまう苦しさでもあります。
この文章は、誰かを裁くためのものではありません。
成功を否定するためのものでもありません。
ただ、人がなぜそうなったのかを、静かに理解しようとする試みです。
私たちは皆、それぞれのやり方で、生き延びてきました。
感じることを手放した人もいれば、感じ続けることを選んだ人もいます。
どちらが正しいという話ではありません。
ただ一つ言えるのは、
人の心を動かすのは、完璧さではないということです。
弱さを知っていることです。
迷いを抱えたまま、誰かを思いやろうとすることです。
その不完全さの中に、人は安心し、共感します。
もし、あなたが違和感を覚えたなら、
それはあなたの感覚が鈍いからではありません。
むしろ、人として大切な部分が、まだ壊れていない証拠だと思います。
静かで、派手ではなく、
それでも確かに、誰かの心に触れる生き方があります。
その価値は、数字では測れません。
