世の中には、人の弱さにつけ込み、甘い言葉で心を縛り、金や人生を搾取する人間がいます。
それは性別や立場を問わず、決して許されるものではありません。
特に、優しさや承認を求めている人に対し、
好意や特別感を装いながら依存させ、逃げ道を塞ぎ、
「自分の意思だ」「自己責任だ」と言って切り捨てる行為は、
本質的には人を人として扱っていない行為です。
人は本来、誰かを信じたい生き物です。
大切にされたい、必要とされたい、価値を感じたい。
その気持ちは弱さではなく、人間らしさそのものです。
だからこそ、人は騙されます。
それは愚かさではなく、心がまだ壊れていない証拠です。
一方で、他人を利用し、搾取し、人生を壊すことが平気でできる人間がいます。
彼らは生まれつき冷酷なのではありません。
多くの場合、自分の中の良心や共感を切り離し、
「相手を感じない」ことでしか生きられなくなった人間です。
人を数字として見なければ、
商品として扱わなければ、
自分のしていることに耐えられない。
だから、感じることをやめたのです。
しかし、それは「強さ」ではありません。
他人を支配しなければ自分の価値を感じられない状態は、
むしろ深い空虚さと脆さの表れです。
普通であれば、誰かを傷つけそうになったとき、
「もしこれが自分の家族だったら」と考えます。
その想像が、人を踏みとどまらせます。
その想像ができない、あるいはしないようにしている時点で、
その行為はどこかが壊れています。
それは文化でも、仕事でも、仕組みでもなく、
人としてのラインを越えているということです。
本来、力を持つ側は、弱い側を守るために存在します。
経験のある者は、未熟な者を導くためにいる。
立場が上の者は、下の者を踏み台にするためにいるのではありません。
誰かを惹きつける力、言葉の力、影響力を持つなら、
それは支配のためではなく、安心のために使われるべきです。
優しさとは、相手を依存させることではありません。
選択肢を奪うことでも、逃げ道を塞ぐことでもありません。
相手が自分の人生を取り戻せる余白を残すことです。
そして、声を上げられない人がいるのは、
その人が弱いからではありません。
恥や自己否定、孤立によって、
声を上げる方がさらに傷つく構造になっているからです。
沈黙は同意ではありません。
沈黙は、生き延びるための選択であることもあります。
だから私たちがすべきことは、
正しさを突きつけることでも、誰かを裁くことでもありません。
「ここにいていい」
「間違えても、人として扱われる」
そう感じられる場所を、一つでも増やすことです。
大きな理想や派手な正義はいりません。
小さな信頼、小さな優しさ、条件のない関わり。
それだけで、人は深い場所から戻ってこられます。
人を利用して得た金や優越感は、
決して誇れるものではありません。
人を傷つけて成り立つ成功は、成功とは呼べません。
本当に成熟した社会とは、
弱さが搾取されず、
優しさが嘲笑されず、
人を人として扱うことが当たり前に守られている社会です。
誰かを大切にしようとする感覚。
苦しんでいる人に手を差し伸べたいと思う気持ち。
それを「甘い」「綺麗事」と切り捨てないこと。
それこそが、人が人であり続けるための最後の砦です。
この文章が、
誰かが立ち止まるきっかけになり、
誰かが自分を責めるのをやめ、
誰かが他人を利用する側に回らずに済むなら。
それだけで、意味はあると思います。
