「多様性を大切にしよう」

この言葉に、異を唱える人はいないでしょう。

けれど最近、私たちは気づき始めています。

多様性を訴える声の中に、なぜか“排除”の響きがあることに。


 


本来の多様性とは、

「違いを認め合うこと」

「互いの存在を尊重し、共に生きること」

のはずです。


ところが今、社会で叫ばれている多様性は、

「自分と同じ考えの人だけを受け入れる」

「反対意見を持つ人を攻撃する」

そんな、一色の“多様性”になってはいないでしょうか。


 


多文化共生、ジェンダーフリー、フェミニズム、選択的夫婦別姓――

これらの言葉自体は美しい理念を持っています。

けれど、その理念を語る人々の中には、

まるで“正義の旗”を振りかざすように、

異なる意見を押さえつける人たちがいるのも事実です。


その姿に、多くの人が静かに違和感を抱いています。


 


メディアは、声の大きな少数派を取り上げ、

まるで彼らが「すべての女性」「すべてのマイノリティ」を代表しているかのように報じます。

でも実際には、

静かに、穏やかに、自分らしく暮らしたい人がほとんどなのです。


本当の多様性とは、

「声の大きさ」ではなく、「心の広さ」で築かれるもの。

けれど今の社会は、

「違う意見を認めない空気」に包まれています。


 


そしてその流れの背後には、

もう一つの大きな動きがあるかもしれません。


それは、伝統や家族や国家という、

人々をつなぐ“根”のようなものを少しずつ断ち切っていく流れです。

文化を相対化し、国境を曖昧にし、

人々を個人単位に分断していく。


それが、グローバル化の名のもとに進められている現実です。

人々がバラバラになれば、管理は容易になります。

信頼や共同体を失えば、人は“支配されやすく”なる。

その構図を、私たちは無意識のうちに受け入れてしまっているのかもしれません。


 


けれど、思い出したいのです。

多様性とは、本来「戦うための武器」ではなく、

共に生きるための知恵だということを。


「違い」を排除するのではなく、

「違い」を通して学び合うこと。

「正しさ」を押しつけるのではなく、

「思いやり」を分かち合うこと。


その優しさの中にこそ、

人間としての温もりがあります。


 


私たちが守りたいのは、

誰かの“正義”ではなく、

互いに認め合い、寄り添い合う“心”です。


本当の多様性とは、

「あなたがあなたでいていい」と言える社会であり、

同時に、「私が私でいてもいい」と感じられる世界です。


 


だからこそ、私たちは考え続ける必要があります。

“多様性”という言葉の奥に、

何が隠されているのか。

誰のための多様性なのか。

そして、自分はどう生きたいのか。


その問いの先にこそ、

本当の共生、本当の自由があるのだと思います。