ブログ5周年を迎えて | Sojourner's Journal

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‘人はみな草のようで、
その栄えは、みな草の花のようだ。
草はしおれ、
花は散る。
しかし、主のことばは、
とこしえに変わることがない。’
Ⅰペテロの手紙1:24&25

‘あなたがたが、かの地にはいって、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、主への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたはその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、主である。’レビ記19:23~25

2011年5月31日から始めたブログがこの5月31日をもって5周年を迎えることができました。上の引用句はまさに、私のブログの歩みに対しても適用できるように思えてなりません。

初めの2年ほどは、自分自身が落ち着く場所も定まらず、方向も定まりませんでした。当初は、日米文化の違いやカルチャーショックなどを書いていました。ですからはっきりと信徒仲間に書いていたのではありません。それが上記引用句のまだ‘割礼を受けていなかった’ということかなと思います。

確かに4年目頃から、聖別されて主への賛美のささげ物となっていったように思います。

そして5年目であるこの1年間に、‘実をいただいた’と感じています。主は‘この実を食べることができる’とおっしゃって下さるのです。

その‘実’とは、イエスご自身が父にいるように、私たちもみな一つとなるようにと、地上において最後に祈られた、その祈りの意味を把握することができたことです。イエスが父のうちにおられるのですから、イエスに繋がる私たちも父のうちにいて、父と一つになるのです。

父=御霊=愛=光、(先日のブログにも書いたように)そのうちにとどまるのです。父と一つになることによって、父がご覧になるように私たちも人々を見るようになります。父の声のうちにその声を聞きます。父という根源的な供給源から、愛や光はもとより、知恵、力、平安、喜び等々をいただくことができるのです。また御霊の現われ(Ⅰコリント人への手紙12:7~11参照)もごく自然なこととして与えられるようになるのです。それは超自然現象でもなんでもありません。父なる神にとって、‘超自然’などないのです。

全ての鍵がここにありました。そしてこれは、私たちの懸命な努力によっては得ることはできないのです。

5年経った今、主にこれらの実をいただくことのできる祝福を心から感謝しています。私は、神=御霊=光=愛のうちにとどまり続けたいと願っています。そのために、パウロのようにいつも霊で祈るものでありたいです。

これがある方が主張された、エデン(喜びの)園に戻ったということかもしれませんが、しかし、神の栄光を内と外に受けて御霊の統合を受けた‘新しく造られた者’(Ⅱコリント人への手紙5:17参照)即ち、初めのアダムよりも栄光に満ちた状態で、神のうち=喜びの園に戻ったのです。その理解がしっかりなされなければならないと思います。そしてこれが、創造の始まるもっと前からの、父なる神のご計画だったのだと思います。

ちょうど良い5年の区切りとなりましたので、ブログをいったん終了しようと思います。ブログを書くことで学ぶことができたことや、コメントを通してのお交わりで学ぶことができたことは、ここに数え上げることはできません。心からこの5年間を感謝しています。

私のブログを訪問して下さった方々、本当に有難うございました。その上、時間を割いてコメントを残して下さった方々には、この場を借りて心から感謝申し上げます。励ましのコメント、また、痛烈な批判コメントでさえも、それらに支えられ刺激されてブログを続けることができました。また、コメントを残さずとも、訪れて読んで下さった方々にも厚くお礼を申し上げます。

皆様、有難うございました。私たちの最終目的地である新しいエルサレムでお会いできることを楽しみに致しております。


今年、杏がこんなにたわわに生りました。こんなに生ったのは、この数年来初めてのことです。


これらの実を‘あなたがたは食べることができる’と主がおっしゃって下さっています。ところが、リスたちもこの実を狙っているのです。番犬マコちゃん、気持ち良さそうに眠ってないでね。(^_-)

雨季が終わって、素晴らしい季節を迎えています。
皆様、さようなら。有難うございました。