今まで書いてきたことをまとめて次に進もうと思います。

私たちが主イエス・キリストを‘私の救い主’また‘私の贖い主’として受け入れた時に、‘生ける水’であるキリストの御霊が私たちの内に注ぎ込まれました。このキリストの御霊は私たちを救いに預かるものとして下さり、みことばの理解を助けて下さいます。これなしにはイエス・キリストは主人であるどころか、ただの預言者としてしか理解されません。また、みことばを読んでも意味が理解できないのです。

さて次に、神の御霊を求めて祈る時に、それが私たちの上に来臨して下さいます。イエスご自身もそうでしたね。神の御霊が鳩のように下って、ご自分の上に来られるのをご覧になっています。(マタイ3章参照)その後に3年間の神のミニストリー(働き)に入られました。ペテロもパウロも先人の多くが、救われた後に神の御霊を受けています。

聖霊はもちろんひとつです。夫と妻が一体(ひとつ)であるように、キリストの御霊も神の御霊もひとつです。しかし夫と妻の働きが違うように、キリストの御霊と神の御霊の働きが違うのです。どう違うかは上述のとおりです。

モーセ五書はイエス・キリストの影または写しです。以下の箇所をご覧下さい。

‘そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。’出エジプト記40:34~38

幕屋の中に満ちている栄光はキリストの御霊、幕屋の上にある主の雲が神の御霊を表わすものと、私は解釈しています。

イスラエル人は‘雲’、すなわち‘神の御霊’が上にあり、それが導いて下さる時だけ旅をしたのです。‘旅をした’、すなわち‘動いた’、すなわち‘神の働き(ミニストリー)をした’、そのように解釈しています。

つまり、主イエス・キリストと同様に、神の御霊が示す時だけ私たちは動くのです。もしもその示しがないのに動くとしたら、それは肉の働きでしかありません。必ずや疲れ果ててしまいます。しかし神の御霊に従う時には、静かな喜びに満たされるのです。

主イエス・キリストは父なる神とひとつになって、換言するならば、父が動く時だけ動き、父が話す時だけ話し、完全に父とひとつになってミニストリーをなさいました。100%完全に父とひとつになってそれができた方はイエス・キリストおひとりだけです。

‘わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。’ヨハネの福音書12:49

‘・・わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりにおこなっていることを世が知るためです。・・’同14:31

私たちもイエスの歩みに従いたいものです。生ける水であるキリストの御霊をいただくだけに留まることなく、更に神の御霊にも包まれていたいです。そして普段はコツコツと日々の歩みをしますが、いざ神の御霊(出エジプト記の‘雲’)が動かれる時には、その動きに従うものでありたいです。

私たち夫婦の場合、‘雲’はそう頻繁には動かれません。でも動かれたならば従いたいと思っています。でないと、不従順の罪を犯すことになりますものね。・・・実は2日前の日曜日に‘雲’の動きがありました。まさかのことに驚きましたが、後で神からの静かな喜びが与えられました。(詳細は省きます。)

雲が動いたのかどうなのか・・見極めが難しいと感じられます。そのために神の御霊を受けた者に、しるし(サイン)として与えられるのが‘異言’です。次回はこの、論争を巻き起こし続けてきた異言について、見解を書き留めようと思っています。

“異言なんて信じないわ。”って方は信じなくていいのです。選択は常に与えられていますものね。聖書にだけ則っていきましょう。