今から60年前位のお話です。岩城宏之が20歳になるかならないかの頃の逸話が、彼のエッセイ‘音の影’に載っています。私は以下に引用する箇所を読んで胸がキューンとしました。何とも言葉で表しようもない感慨に襲われました。たったの60年の間に日本もアメリカも、いったい何がどうなってしまったのでしょうか・・・。

‘・・半年経って、ぼくの優柔不断さにシビレをきらしたのか、
 「わたしたち、なんとなくいつも食事したり、映画を見たりしているなんて意味がないから別れましょう」と言われてしまった。
 同時に、本当はフィアンセがいるのだと言った。
 ぼくは、絶望のあまり、三週間ほど自殺を考えて過ごしたが、告白だけはしようと考え抜いて決意した。・・・略・・・
 学校中、ほかに何の音もしないレッスン室でピアノを弾いている彼女の横で、ピアノの音なんか耳に入らなかった。彼女にフィアンセがいて別れようというならしかたがない。でも死ぬまでに一秒だけでもいい、キスがしたかった。
 あと10数えたら跳びかかろう。たちまち10になる。またカウントする。合計1000ぐらい数えただろうか。・・・略・・・
 この瞬間しかなかった。
 ぼくはいきなり、彼女に抱きついた。彼女の抵抗はすごくて、二人は床に倒れこんで、ゴロゴロと転がった。二人とも着ているものが、雨の日のドロドロの床で無茶苦茶になった。
 一瞬、ぼくの唇は、彼女に触れることができた。というより、両方の歯がガキッとしたような感じだった。
 ぼくは立ち上がり、泥だらけの上着のまま、「もう、これでいつ死んでもいい」と叫んで部屋を出た。
 それから三ヶ月ほどは、学内ですれ違っても、彼女は顔を横に向け、目を絶対にぼくに合わせなかった。ぼくは一秒間のキス(?)で死んでもいいと思っていたから、堂々としていた。
・・・略・・・
 もう五〇年近く経ってしまった。今の若者には想像もつかない話かもしれないが、アルベニスの『エスパーニャ』を聞くたびに、ぼくは、時を失うのである。’・・・

*中略したのでわかり辛いかもしれませんが、恋したピアノ科の彼女がレッスン室で弾いてくれたのがアルベニスの『エスパーニャ』だったのです。

彼が書いているように、今の若者には想像もつかない話かもしれないです。でもこの箇所を読むだけでも、彼の男らしさ(フィアンセがいるならしかたがない、と考えるところ)や彼女を思う真剣さや一途さが感じられて、ステキな人だなあと思うのです。

以前、親の家で同棲している若者がいるという話を聞いた時は、あごが外れたきりになりました。親も子どももいったい何を考えているんでしょう?

この岩城さんの逸話は‘古い’ものではないと思うんですよね。人を真剣に愛する本物の愛は、時代を超えたものです。本気で真剣に愛する相手を、そんなに簡単に触ったり、まして、夫婦だけに与えられた聖なる関係である性的関係を持つことなどできるはずがありません。

神の言葉を知らなくとも、60年前の日本はこのような節度溢れる国であったわけです。多分アメリカも同様だったのでしょう。

やはり私、どの国も退廃に向かっているような気がするんですよね。回復を望むのはもうムリのような気がするのです。でもせめて家族や周りの人たちには、神の言葉、即ち、時を超えた真実を知ってもらいたいと思っています。