一介の主婦が夏の間に子供を連れて実家に戻ったら・・・「今日もまたかくてありなん」を観て | パンクフロイドのブログ

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ラピュタ阿佐ヶ谷

昭和の銀幕に輝くヒロイン[第110弾]久我美子 より

 

製作:松竹

監督・脚本:木下惠介

撮影:楠田浩之

美術:梅田千代夫

音楽:木下忠司

出演:高橋貞二 久我美子 中村勘九郎 田村高廣 小坂一也

         三井弘次 佐野周二 三國連太郎 中村勘三郎

1959年9月27日公開

 

神奈川の辻堂に住む佐藤家は自宅のローン返済のため、夏の期間だけ部長に月六万円で家を貸すことに決めます。夫の正一(高橋貞二)はその間、東京の同僚のアパートに転がりこみ、妻の保子(久我美子)は息子の一雄(中村勘九郎)を連れて、軽井沢の実家に帰りました。

 

雑貨屋の実家には母(夏川静江)のほかに、タクシー運転手の弟哲生(田村高廣)と春子(小林トシ子)の夫妻とその子供、小諸の町工場勤めの弟五郎(小坂一也)たちが暮しています。やがて、保子は鍋を買いに来た中老の男・周助(中村勘三郎)と親しくなります。彼は一年ほど前から材木屋のはなれに小さな娘と住んでいました。

 

その頃、ヤクザ者の赤田(三國連太郎)も、情婦と子分どもを引き連れ軽井沢に滞在しており、チンピラどもの乱暴狼藉が目に余るようになります。周助は保子と子供たちの水遊びを見守りながら、ヤクザたちへの怒りを露わにします。やがて夫の昭一が軽井沢にやって来たものの、専務夫人の麻雀のお相手をするため、保子も息子を連れて同行する羽目になり、会社のことばかり考えている夫への不満が爆発しそうになります。

 

その後、保子は周助の家を訪ねた際、彼が石屋に頼まれた墓の戒名を書くのを目にします。周助は元陸大出の軍人で、戦争で人間を殺した罪を感じ、子供だけを頼りに、旅館勤めの妻とも江(藤間紫)の仕送りで細々と暮していました。夫が恩給さえも断ったため、妻は怒って別居に到り、今では名ばかりの夫婦となっています。

 

そんな折、赤田の情婦ミミ(杉田弘子)が彼の別の女に嫉妬したことから、赤田の片腕となって働く子分(三井弘次)が保子の弟哲生の運転するタクシーと接触事故を起こして消されてしまいます。また、哲生の入院と同じ日、周助の幼い葉子が疫痢に罹ります。しかし、周助の願いは叶わず葉子は亡くなりました。

 

後日、正一は再び軽井沢にやって来ますが、保子は同行せず、娘を亡くした周助を訪ねます。端座してひとふりの短刀を見つめる周助に、彼女は穏やかならざるものを感じ取り、短刀を取り上げて持ち帰ります。一方、周助と別れたとも江は娘の死を悼み、赤田たちと酒を飲んだりしていました。

 

同じ頃、五郎は得意の歌を披露して片想いの紀子(藤美恵)と親しくなりますが、その夜、二人は赤田の子分に襲われます。五郎は命がけで紀子を護り、彼は負傷したものの警官が駆けつけたため大事には至りませんでした。五郎への見舞の帰途、周助は保子に葉子は妻と他の男の間にできた娘だったと告白します。

 

彼は葉子とは血のつながりはありませんでしたが、自分の娘のように想い、彼女の死を自分の生が絶たれたように苦しんでいました。保子は泣きながら周助を慰めました。その後保子は、迎えに来た正一から、夫に預けた短刀を周助が待ちだしたことを知らされます。彼女は周助が死ぬつもりだと直感し、雨の中を無我夢中で走るのですが・・・。

 

木下惠介監督の演出の巧さを今更語るのは野暮というものですが、この映画ではジャンプカットを含めた省略の妙を堪能しました。また、久我美子が商店街に買い物に行く場面では、物の値段が具体的に表示されているため、当時の物価や庶民感覚が把握しやすく生活が身近に感じられました。

 

この規模の映画にしては役者陣が意外と豪華で、佐野周二や田村高廣クラスでも端役扱いなのがある意味凄いです。それとは別に、十七代目中村勘三郎と五代目中村勘九郎の親子共演という楽しみもあります。二人が一緒に映る場面はほぼないにせよ、勘九郎が母親役の久我の手を煩わす腕白ぶりは微笑ましかったです。

 

また、久我の末弟を演じる小坂一也は、映画デビュー前は歌手だったにも関わらず、この映画では歌うことが好きなのに聴衆の前では自信の持てない青年を演じて、木下惠介のちょっとした茶目っ気も感じさせます。

 

勘三郎演じる周助は陸軍大学出身の元軍人で、敵を殺し部下を死なせた挙句、自分一人が生き残ったことに忸怩たる想いを抱いています。したがって、戦後は恩給を一切受け取らなかったため、妻のとも江とは不仲になり、血の繋がらない娘の面倒を見ることだけが楽しみの生きる屍と化しています。その一方で、傍若無人な与太者たちには、大きな怒りを覚えています。その根底には、こんな奴らが跋扈する日本を護るために、俺たちは命懸けで戦ったのかという苦い想いがあります。

 

そのならず者の筆頭が三國連太郎の演じる赤田。三國は僅かな出番にも関わらず、ワルの存在感が半端ないです。最後に三國はピストルで、短刀を手にした勘三郎と対決するのですが、この二人の対決も滅多にお目に掛かれるものではなく貴重でしょう。三國の片腕となるのが、三井弘次というのも理に適っています。如何にもずる賢そうな顔つきの上に、殺しを偽装するために自ら事故を起こす度胸もあり、三國と三井の二人だけでも十分凶悪な印象を残します。

 

久我美子は一介の主婦にしては美人過ぎるものの、仕事以外にも上司の家族に付き合わされる夫にうんざりしつつ、日常の生活に疲れている主婦を巧みに演じています。彼女の夫である高橋貞二は、昭和のサラリーマンの価値観が滲み出ていて、良くも悪くも高度経済成長期の猛烈社員を体現していました。

 

ある意味、この映画は木下流の任侠映画と言ってよく、滅びの美学が実践されています。個人的に感心したのは、勘三郎による殴り込みの場面で家の中の様子を一切映さず、外に出てきた三國との対決に絞ったこと。また、戦いに決着がついた途端、すぐさま久我の東京の日常生活に引き戻した点。ヒロインにとって大きな関りのあった人物に悲劇が起きたとしても、普段の生活は続いていくことに無常観を思わずにいられませんでした。